【コラム】初プレイの人にボードゲームのルール説明(インスト)をすることの難しさは、一体どこにあるのか?(2)
注:この記事は、インストのための方法論を書いたものではないです。インストのための方法論をいくつか読んで、そこに共通するものについて書いた記事です。前回の記事内には、そうした素晴らしい「インストのためのガイド」へのリンクがあるので、具体的な方法論については、そちらのサイトを参照願います。
前回は、ボードゲームのインストのコツとして、「大きなことから小さいこと」というトップダウン志向のインスト方法論が共通して語られている、という現状について言及した。しかし、一方で、詳細からゲーム全体を理解する志向もあるのではないか、と新しい言語を学ぶ時のアナロジーから問題提起を行った。
今回は、その新しい言語を学ぶ時の話をもう少し進めてみたい。
■体系を理解する2つの側面
新しい言語を理解するというのは、参考書を読んだり、文法を覚えたりするような「トップダウン」志向だけで学ぶわけではない。書いたり、話したり、といった実践的な「ボトムアップ」志向で学ぶことで、段々と理解してくる、という経験は多くの人がしている。
これはなぜか、と考えてみよう。
自然言語の場合を例に挙げる。1つの言葉というのは、単独でその言葉として存在しているのではなくて、他の言葉との関係の中で存在している。
たとえば、「みかん」と「Orange」では、それぞれ指す対象が異なるだろうか?多くの人が、「厳密には違うのだろう」と思っている。しかし、なぜ異なる対象を指すのだろう。
先ほど、1つの言葉は、「他の言葉との関係の中で存在している」と言っているのは、「みかん」と「Orange」では、違う言葉だから違う対象を指す、というわけではない!ということだ。(ここ重要!)
異なる言語体系の中で、「みかん」という単語のポジションと「Orange」という単語のポジションがあくまで相対的に存在している。これは、中空に各単語が浮かんで、蜘蛛の巣のような見えない網に他の単語と一緒に捉えられているイメージだ。そして、他の単語との位置関係が似ていると、同じようなものを指す(みかんとオレンジは同じものだ)。でも全く同じ位置関係ではないから、異なるものを指す場合もある(みかんとオレンジは違うものだ)。両方が成り立つのだ。
だから、「みかん」という単語、「Orange」という単語だけを取り出して、それぞれが同じものを指している、違うものを指している、と語ることにあまり意味はない。
そして、ある言語を理解するには、トップダウンからその言葉のあるべき姿を理解するだけではなく、具体的で詳細な一つ一つの単語の実際の使われ方を理解していき、他の単語との相対的な位置関係の中から、ようやくその1つ1つの意味が見えてくるようになる。
「みかん」を理解するとき、「みかん」という単語単独で、理解するのではなく、「りんご」や「なし」や「牛肉」や「黄色」や「絵日記」やいろいろな単語を理解したその関係性の中で、ボトムアップ的に「みかん」を理解するのだ。
実はボードゲームのルールも同じだと思う。
説明(インスト)する側は、すでに体系を理解している。トップとボトムの両方からこのゲームという言語を理解している。そして、初プレイの人には、なるべく短い時間で理解してもらえるように、トップダウンで大まかな概要やテーマから話をしようとする。
これは、義務教育が英語を基礎文法から教えようとしているのと同じ。おそらく論理的には、この教え方が最も正しい。抽象性の高いルールを理解することで、きわめて汎用性の高い正しい理解が得られるからだ。しかし、実際に話したり、書いたりしないことには、なかなか言語は「身につか」ない。これは、ボードゲームも同じことだ。
誤解しないでほしいのは、そうしたトップダウンで大まかな説明から実施する方法が良いとか悪いとか、そういう話では全くないってことだ。基礎文法から教えるべきだ、とか。とにかく話しまくれば外国語を学べる、とか。そういう議論が宗教戦争になるのと同じように、どちらが正しい、間違い、ということではない。体系を理解するには、トップとボトムの両面、どちらも必要なのだ。
そして、どちらも必要でありながら、ボードゲームを「トップダウン」志向で教えることの優位性は、こう考えることで際立つ。つまり、そのゲームを知らない人は、細かなルールを聞いても他の細かなルールとの相対的な位置関係を築くことができない。だから、大まかな説明から実施する。「他のルールとの相対的な位置関係を築くことができない」というのは、そのルールを自分のプレイにどう適用していいか分からない、使い方が分からない、と解してもらえればいい。
そして、一方で、練習試合としてチュートリアルゲームをするインスト方法の有効性も同時に見えてくる。これは、大まかな説明から実施するインスト方法と全く逆の方向性でありながら、なぜ有効であるか?それは、ゲームに(仮に)参加させることで、細かなルールを一挙に提供し、その相対的な位置関係を自ら築くように促すからだ。使い方を分からせるところから始めるのだ。
特にボードゲームにおける文法、ルールというのは、ゲームとしての娯楽の基盤であるから、これをないがしろにすると、楽しさまで奪われてしまうことにもなりかねない。大まかな説明から詳細へと向かう説明は、正しいルールでプレイすることの意義を強く感じる人が、採用したくなるインスト方法だとも言える。
一方で、ほとんど説明することなく、いきなりゲームをスタートするようでは、そもそもゲームを楽しめない。だから、練習試合にしたりして、説明用の試合と本番の試合とを区別するわけだ。しかしこの方法の大きな欠点は、時間が余計に掛かってしまうところだ。結構これは致命的だ。多くの人にとって、分かりやすいインストは、短い時間で理解してもらえるインスト、とほぼ同義だからだ。
前回、リンクさせてもらった記事のいくつかは、そうしたルール説明(インスト)におけるボトムとトップの二面性を具体的にどのように解消しようとするか、という苦闘の足跡であると思う。
ここまでくれば、記事タイトルに挙げた『インストの難しさはどこにあるか』という問いに、ある程度答えることができるだろう。
ゲームを理解することは、「体系」を理解することであり、それはつまり、個のルールの相対的な位置関係を把握することである。難しさは3つの場所にある。
1つ目。「トップダウン」志向のインストでは位置関係の構築として十分だと言える量に、到達できないのではないか、という不安。その不安が難しさの1つ目の場所だ。そしてその不安は、決して見えない他人のココロに起因しているため、インストを何度も経験しないと、根本的には解消されない。そして、インストの成功体験を重ねることで、他人のココロが見えるような気分になった時に、自然と以前は感じていたはずの「難しさ」が消滅しているだろう。
2つ目。それは、おおまかな説明的インストをせずに、練習試合から始めてしまう方法を取れない、というジレンマ。時間のない社会人であればなおのこと、1回目のプレーから楽しんで貰えるようにしたいと思う。同じゲームを2回もやらせるのは申し訳ない。その手法が十分に有効なことは知っている。しかしその「ボトムアップ」志向の手法はなかなか全面的に採用できない。その苦しみに2つ目の難しさがある。しかし、練習試合が短く終わるゲームであれば、それを採用することでこの「難しさ」は解消することができるだろう。
そして、3つ目。上記に挙げた2つの手法、そのうちどちらの手法をどれだけ採用するべきか、どれだけ混合させるか、というところに根本的な3つ目の「難しさ」が存在している。
(次回は、最後に、インストからボードゲームだけが持つ特有性について話を発展させます)
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