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2012年12月22日 (土)

【コラム】コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのか?~「こうどなしんりせん-前編」を読んで

ボードゲーム好きには有名なサイト、『実録:食卓遊戯密着大本営発表廿四時』に、とても面白い記事が載っていた。「こうどなしんりせん - 前編:準備としての一般論」という記事だ。(今更気づいた・・・)。自分はゲームを製作する立場にないので、分かっていない部分も多いのだが、大変興味深く、面白かった。(後編も期待しています。ぜひぜひ続きを読みたいです)

ところで、この記事、ずっと自分が疑問に思っていたこととストレートに重なる。それは、「コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのだろうか?」という疑問だ。「こうどなしんりせん:前編」を読み解きながら、本記事では、この疑問について、一定の回答を与えてみたい。



最近は様々なボードゲームがコンピュータ対戦の形でプレイできる。ボードゲームの醍醐味は、実際に人と対峙しコンポーネントを囲んでプレイすることにあるが、ゲームによっては、コンピュータが相手でも十分に楽しむことができる。しかし、数あるボードゲーム、カードゲームのジャンルの中でも、最もコンピュータ対戦が向かないものが「ブラフゲーム」ではないかと思う。直感的に、コンピュータと「ブラフゲーム」を遊んでも楽しくない、と多くの人が思うだろう。

■ブラフゲーム成立のための1つ目の条件

この問題を考える際のとっかかりとして、「こうどなしんりせん」の記事を振りかえってみたい。ここで「しんりせん」という言葉は、「ブラフゲーム」よりも広い範囲をカバーするだろうが、僕の記事が対象としている「ブラフゲーム」は、その範囲の中に収まると考えている。

さて、「こうどなしんりせん」には、以下のような文章がある。

ある一定のメタレベルにおいて行動傾向を自発的に変えることがどれくらい容易か、という話で、ゆるやかな変化を続けることは可能というより必然であってもドラスティックな変化は相当に難しい、という仮定が「ある種のルールセットという制約下では」成り立つのであれば、心理戦には意味がある

いきなり前後の文脈なしに、この文章を引用してしまうと分かりづらいが、以下のように読み解けると思う。

  1. 人間の行動は何らかの傾向性に従っている。
  2. 性格のように長い年月の中でゆるやかに変わるかもしれないが、短期的にその傾向性が大きく変わったりはしない。
  3. 「傾向性に従う」ことが他者からも類推できる状況をルールセットが破壊しなければ、心理戦は成立する。

先の引用箇所は、プレイするたびに相手の人格が変わってしまうような多重人格者を想像すると分かりやすいかもしれない。人格として一貫性を持たない相手とブラフゲームを遊んでもおそらく楽しくないだろう。上記でいう「心理戦には意味がある」が破壊される状況になるのだ。

ブラフゲームの成立には、このように対戦相手の人格の同一性が条件となる。さっきのラウンドで対戦したBさんは、このラウンドでも同じ人格を有するBさんだ、という前提が必要なのだ。これは「こうどなしんりせん」の記事中の以下の文とも呼応する。

逆に言えばここには「人間は本質的にはランダマイザを持っていない」という仮定があり、心理戦のゲームを作ったり遊んだりするということはこの仮定「も」呑んでおくということでもあります。

ランダムな手を打ってくるコンピュータとブラフゲームを遊んでも、傾向性を読み取ることが不可能となり、ゲームが成立しなくなってしまう。まず第一の条件として、こうした一貫性を持った人格というものが必要になると考えられる。


しかし、「BさんはBさんである」という条件を満たせば、コンピュータとのブラフゲームが成立するわけではない。例えば、現代において、コンピュータに一定の傾向性を持つ人格を持たせることは可能だ。そしてある程度一貫した傾向性を持つコンピュータ(仮にHALと名づけよう)とは、ギリギリのところでブラフゲームは成立する。「嘘をつくのが下手なHAL」とブラフゲームをする、ということは辛うじて想像することができる。しかし、そんな優秀なHALであっても、コンピュータとブラフゲームをすることの虚しさは残るのではないだろうか。

※念のため補足しておくが、そのコンピュータのレスポンスや反応が、人間的でないから興ざめしてしまう、というような事態は、この考察の対象外だ。

例えば、「私」は昨日一緒に楽しくCさんとブラフゲームをプレイしたとしよう。そのCさんが「実は精巧にできたアンドロイドだった」と後になって聞いたとする。これが仮に事実だったとしても、ただちに「コンピュータとブラフゲームは遊べる」という結論に"ならない"と考える。ここでの「私」は、本当のCさん(コンピュータであること)を知ってしまった後、「もしかしたら今後はCさんとブラフゲームを遊ぶのは無理かもしれない(でも楽しかったのは事実だし・・・)」と苦悩する。この苦悩がどこから来るか?ということをここでは考察の対象としている。


■ブラフゲーム成立のための2つ目の条件

改めて、なぜコンピュータとのブラフゲームでは虚しさがあるのか考えてみよう。
一貫性のある人格を持つHALを相手にして、ブラフゲームをプレイする。彼の性格を読み取りながらゲームすることはできるかもしれないが、物足りなさを感じてしまう。それを「虚しさ」と表現した。

その虚しさが生じるのは、「勝利に直結する論理以外を判断できるコンピュータ」を、我々がうまく想像できないからではないだろうか?

例えば、ブラフというのは多くの場合「嘘をつく」ことになる。
  • 髑髏を出しているのに、さも薔薇を出しているかのようにチャレンジ宣言する。
  • 狼であるのに、さも村人であるかのように振る舞う。
  • カエルを出しているのに、ゴキブリです、と言う。
  • サメを出すと不利になるのに、あえてサメを出す。

そして、社会通念上、次のような価値観を多くの人は共有している。
「嘘をつくことは悪いことだ」
その裏返しとして、次のような価値観もほぼ共有されている。
「他人を嘘つき呼ばわりするのは悪いことだ」
また、派生形としてこのような価値観も広く共有されていることだ。
「嘘をついたことを見破られるのは、とても恥ずかしいことだ」。

これらの価値観が共有されることが、ブラフゲームの成立には不可欠ではないか。「相手がどんなにポーカーフェイスを装っていても、きっと嘘を見破られて、今相当悔しいんだろうなあ」とか「ここでは嘘をつかない人だと思ったのに、ショックだ。信じていたのに。」という感情の揺れをお互いに共有できないと、それは虚しさへと引き込まれてしまう。

コンピュータは嘘をつけない。もちろんコンピュータであっても、事実と違うことを発言することはできるだろう。しかし、そこに善悪の概念、恥じらいの概念は存在していない。嘘をつくことに後ろめたさを感じるコンピュータを、我々はまだうまく想像できないのだ。

もう1つ例を出そう。「裏の裏を読む」ということがブラフゲームでは起こる。しかし「裏の裏」が「表」と違う、とコンピュータは判断できるだろうか。もし、コンピュータが「裏の裏」を妥当な手として見たときに、瞬間的に論理展開は「裏の裏の裏」へと遷移してしまう。それは合わせ鏡のように、最初の「表」の手が出ると判断された瞬間に、無限に続く「裏の裏の裏の・・・・」へと導かれてしまう。そんな無限ループに陥るような論理展開(アルゴリズム)は、おそらく無意味だ。

通常、コンピュータは「裏の裏」を「表」と等しいと判断するだろう。そして、「表」も「裏」も可能性として存在する以上、あとは「表」と「裏」のどちらが出るかという確率の問題に収束してしまう。
(※ちなみに"自己言及のパラドックス"にはここでは踏み込まない)

人間の場合はどうだろうか。対戦相手のプロファイリングから、「表」が出ることが妥当だと認識したうえで、「裏」を読むことがある。それを踏まえた上で、更に「裏の裏」を読むということもあるだろう。しかし、ここが実はおかしいのだが、そういう思考ルートを辿ると、「裏の裏」と「表」が違うコトと認識してしまう。

実態としては同じなのだ。しかし、「裏の裏」の方が「表」よりも「後に」導き出されるため、そのように錯覚してしまう。論理展開された結果、それらは原因と結果という質的な違いがあるものと考えてしまう。しかし、それは、あくまでも「あなたがそういう順番で考え、そしてそこで展開を意識的に止めた」にすぎない。しかし、何よりも問題(?)なのは、その違いが単なる一人の妄想ではなく、コミュニケーションをとることで、2人以上の人間の間でお互いに共有できる、という事実なのだ。

勝利を得るためのアルゴリズムを構築する上で、「表」と「裏の裏」を区別する意義は存在しない。しかし、人間同士だと、コミュニケーションによりこうした区別の共有が可能に「なってしまう」のである。

上記に挙げた2つの例。2つともコミュニケーションにより「頭の中にあるもの」の共有を図ろうとする行為だ。そして実は、「頭の中にあるもの」は、勝敗を決する上で、全く不要なノイズなのだ。コミュニケーションの成立により、何らかの「頭の中にあるもの」が生じているように錯覚しているに過ぎない。そんなものは存在しない。本当は、コミュニケーションが成立した事実しかないのだ。(※1)

ブラフゲームは、将棋で言うところの感想戦しかないゲームだ。将棋では論理的思考の結果としての1手という極めて濃密なコミュニケーションがゲームを成立させている。しかし、神の記憶力と想像力をもってしても、決して答えに到達できないようになっているのが、ブラフゲームだ。ブラフゲームで打たれるその1手は、常にその後の感想戦(コミュニケーション)のために存在している。ブラフゲームの1手は、そのゲーム空間において対戦相手をどう思っているか、そして対戦相手が自分をどう思っているか、というきわめて漠然としたまさに「相手への感想」とでも言うものの発露でしかない。

なにより、その「感想」は整合性のとれた実態を必要としない。つまり、「本当にそう思われている」必要や「論理的に正しい思考フローである」必要はない。将棋の1手のような論理的思考の結果ではなく、むしろそういう論理的なものでないからこそ容易に言語化できる「感想」なのだ。

本当は本一冊かけても書ききれないような膨大な対戦相手のプロファイリングが、「あなたはそういうことをやる人だと思った」という一言で一挙に共有できるとこまで到達できてしまう。そうした「感想(=頭の中にあるもの)」という方便の存在を利用したコミュニケーションゲームがブラフゲームではないだろうか。

「嘘をついた(A)」ことと「嘘をつくと思いきや、反対に嘘をつかないようにするだろうと思われていると思ったので、嘘をついた(B)」ことが違わない、(A)と(B)が同じだと思う人は気を付けた方がいい。ブラフゲームを楽しむための方便を信じられなくなってきている。対戦相手と共有できる物語の濃度が薄まってきているのだ。

コンピュータは論理的な手(もしくは分裂病的なランダムな手)しか出せない。ゲームの本体である感想戦を遊べない(=「感想」を共有できない)と思うからこそ、コンピュータとのブラフゲームには虚しさが伴ってしまうのだ。


※・・・補足すると、例えばこれは「人間らしい感情的なもの」という話でもない。感情は副産物として生成されるに過ぎない。重要なのは「共有できた」と認識することだ。
「嘘をつく後ろめたさ(を共有できた)」
「勝負の要でハッタリをかますドキドキ感(を共有できた)」
「深読みしたこと(を共有できた)」
全て、コミュニケーションが成立した後の物語でしかないのだ。


■結論
さあ、以上で道具は揃ったので、最終的な回答としよう。
「コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのか?」
コンピュータとブラフゲームを遊ぶためには、以下の2つの条件が必要になる。

  1. 人格の同一性
  2. 「感想」の共有

コンピュータで上記2点を実現できる人格を形成できるようにならない限り、コンピュータとブラフゲームは遊ぶことができないだろう。

そして、ブラフゲームが、勝負の決するギリギリのところで最も白熱し、その部分に醍醐味があるようにデザインされていたり、スピード感が重視されているのは、こうした非論理的な「感想」の共有という危なっかしい橋(勝敗上無意味)を渡っているからかもしれない。

そして、ボードゲームを特に好きじゃない人もブラフゲームを楽しむことができるのは、この「感想」を共有すること、伝えること、伝わってしまうことが、かなり根っこの部分で「面白いこと」だからなのだろう。


※・・・本気で、だれか研究している人いないのかな。アスペルガーの人や解離性同一性障害の人とのブラフゲームについて。結構興味深い事象が見られるだろう。きっと似たような研究はあるだろうな。


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