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2012年12月

2012年12月30日 (日)

【コラム】なぜテレビゲーマーがボードゲームに期待するのか?

年末なので、自らを振り返る意味も込めて。


あまりこのブログでは言及していないが、僕は根っからのテレビゲーマーだ。学生時代は毎日のようにゲーム屋さんに通っては、面白そうなゲームがないかを物色していた。当時住んでいた吉祥寺には、多くのゲーム専門店があった。このあいだ、約10年ぶりに、吉祥寺に行ってみたら、その店の多くはなくなってしまっていた。寂しさを覚えるとともに、妙な納得感もあった。

2012年9月。今から3か月前、そんな僕がふとしたきっかけで、ボードゲームにハマることとなった。

一番のきっかけが、『Wiiスポーツ』(2006)だ。このゲーム自体が原因ではない。もう発売からずいぶんと経つ。むしろ、このゲームを超えるゲームがWiiで出なかったという事実が、一番の原因だ。結局、超えるゲームが出ることなく、新世代機が出てしまう。それが少しだけ寂しかった。

『Wiiスポーツ』をやって、当時の僕はとても可能性を感じた。誰もが斜に構えて、そんなことは不可能だと思っていたパラダイス「みんなが楽しい」世界を、もしかしたら実現してくれるかもしれない。Wiiリモコンを見ながら、僕はそんな夢想をしていた。

しかし、『Wiiスポーツ』を超えるゲームはその後発売されなかった。もちろん『マリオギャラクシー』(2007)や『428』(2008)や『ゼノブレイド』(2010)など、傑作は多くリリースされた。それらは紛れもなく傑作だったけれど、僕が期待し、夢見た「何か」ではなかった。

結局全ての家庭用ゲームハード、携帯型ゲーム機、iPhone、iPadを揃え、めぼしいゲームを色々と買ってみたけれど、その隙間を埋める存在には、なかなか行き当たらなかった。

今でもテレビゲームは遊ぶ。かなりやっている方だと思う。だから単にテレビゲームに失望したとか、もう将来のテレビゲーム業界は暗いとか、そんなツマラナイことは考えていない。きっとまだまだ新しい地平を切り開く、そんなゲームが出てくることを期待している。

じゃあ、なぜボードゲームなのか。まだまだ若い産業であるテレビゲームではなく、なぜ敢えてボードゲームにも期待をかけるのか。

それは、ボードゲームが「面白い」ということだけに"こだわれない"という特徴を持っている、と思うからだ。

「面白い」ということだけにこだわると、行きつく先は、「パチンコ」や「ソーシャルゲーム」になってしまうのではないかと最近よく考える。

パチンコはなおのこと、ソーシャルゲームも、多くのゲーマーから批判を受けている。「あんなのはゲームじゃない」とか「想像力の低い遊びだ」とか、色々と言われているけれど、「面白い」ことだけを追求していくと、アレになってしまうのではないか。

ここで「面白い」の定義をしようとは思っていない。しかし、あんな「ソーシャルゲーム」に夢中になっている人がいっぱいいることは事実だし、それを否定することが「よりエライこと」だなんて誰もお墨付きを与えてはくれない。

ここは一度「面白い」だけにこだわらない事が、むしろ重要なんではないかと思うのだ。

例えば、所有欲を満たす、という快感がある。これはボードゲームの特徴の一つだ。テレビゲームは購買欲を満たすかもしれないが、所有欲を満たすようにはあまりできていない。ボードゲームには、コンポーネントがある。ルールブックがある。そして、あのデカい箱がある。それらにこだわったボードゲームを望んでいるわけではなくて、そこに気を使う構造になっているボードゲームに期待できる部分、というのがあるのではないか。

他にも、例えば、ボードゲームは、直接人と対面でプレイするという前提がある。お互いに顔を見てプレイすることが、ほぼ100%想定されている。インターネットを前提にしなくていい、直接相手の表情が見て取れる、というのは考えようによっては大きなアドバンテージになるのではないか。「面白い」だけではない価値を産む土壌になりはしないか。

図らずも、ボードゲームは、「面白い」にこだわるだけでは許されない制約を課されている。そういう眼を持った多くの人の視線にさらされている。

もちろん、「面白い」ことを誰も否定できない。ゲームにとって「面白い」ことは全ての前提であるし、なかなか到達できないゴールでもある。その「面白い」のために、文字通り命を削っている人が数多くいる。

しかし、「面白い」ことだけに収束しないこだわりが、新たな価値を生み出すことがある。「カタン」や「カルカソンヌ」のBGGでのランキング順位は決して突出して高いわけではない。しかしみんな、この2つがとても偉大な作品だと認識している。この一見すると整合しない事実に、僕はボードゲーマーの良心的なバランス感覚を見出す。

ボードゲームの持つ制約と環境が、新しい扉を開くことを期待せずにはいられない。どんな形かは分からないけれど、ボードゲームがその扉を開くと思っている。



【ボードゲームレビュー】3つの掟/三戒 ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](6人プレイでの評価です)

プレイ人数:3~7人

プレイ時間:60分ぐらい


楽しい。「マネをする」というのは無条件に楽しい事なのだ。すごい発想でゲームを作るものだ。

簡単なゲームの流れ


  • ①3種類の色の10本近くある木製の棒を、ボード上に立てる。
  • ②プレイヤーのうち一人だけ、司祭役となり、山札からカードを4枚とって、その中の3枚のカードを掟として定める。(司祭役は順番に交代する)
  • ③他のプレイヤーは、棒を1本だけ動かす間に色々な動作(手を叩くとか、踊るとか、歌うとか、茶色い棒を真ん中に移動させる、とか)を試す。
  • ④司祭役は、各プレイヤーの動作を見て、事前に決めた3つの掟に従って得点を各プレイヤーに与える。
  • ⑤次のプレイヤーは、前に実施したプレイヤーの行動を見て、得点の高い行動が何かを探る。最も得点を得た人が勝利。

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ゲームの総評


パーティゲーム。面白い。プレイしている間、全員の笑顔が絶えないゲームだ。

落語に「本膳」という噺がある。行儀作法を知らない田舎者が、師匠の真似をして会食に臨むのだが、師匠の失敗した動作まで作法の一部だと思って真似してしまう、そんな笑い話。

司祭役の決めた掟が何か分からないので、偶々高得点を取ったプレイヤーの動作をみんなが真似して、奇妙な行動を取りまくる。それは怪しい宗教的儀式のようで、これがまた見事にこのゲームのテーマ(怪しい宗教団体、というテーマ)に合致する。

電力会社を作ったフリーゼのゲームと聞いて、すごいなあと思った。

とても楽しかったのだが、そりゃあ楽しいだろうよ、なんか卑怯だろこのゲーム、と思ってしまうくらい笑いの絶えないゲームだった。


2012年12月28日 (金)

【ボードゲームレビュー】ゲシェンク ★★★☆

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評価:★★★☆[3/4](5人プレイでの評価です)

プレイ人数:3~7人

プレイ時間:20分ぐらい


コイン集めたい。いっぱい集めたい。ジャラジャラジャラジャラ。

簡単なゲームの流れ


  • ①山札からカードを一枚めくり、場の中央に出す。
  • ②各プレイヤーは順番にそのカードを取るか、手持ちのコインを払ってパスするか、を選択する。
  • ③パスで払ったコインは蓄積され、カードを取った人がそのコインも取得できる。
  • ④カードには数字が書かれているが、取った複数枚のカードが連番になった時、そのカードの点数は、連番の最も低い点数になる。
  • ⑤コインの枚数分、カードの点数を低くすることができる。24枚めくった後、カードの点数の合計が最も低い人が勝利。

ゲームの総評


凄く面白い。コインを集めるのは誰でも楽しいんだと思う。

カードはあまり取らない方が勝利に近付く。カードを取らないでパスするには、コインを支払わなくてはならない。みんなには、パスするためのコインを払ってもらい、自分1人が大量のコインを手に入れる(=カードは取るけれど、コインで点数を稼ぐ)なんてことができる。

良く考えられているメカニクス。「各プレイヤーが何を意図しているか」。これが伝わる瞬間というのも、ゲームの面白さに関連しているのだと思った。

本能的に楽しいことを組み合わせたゲームという感じもする。戦略というのもあるのだろうけれど、プレイすること自体が楽しいのだからかなわない。

コインを豪華にしたデラックス版とかあったらいいのではないか、と少し思ったが・・・・。逆に下品か。このプラスチックのコイン。これぐらいがちょうどいい、というのはあるかもしれない。

2012年12月26日 (水)

【ボードゲームレビュー】AHHBANG!! ★☆☆☆

評価:★☆☆☆[1/4](3人プレイでの評価です)

プレイ人数:3~6人

プレイ時間:10分ぐらい


いつ出すか。それが問題だ。

簡単なゲームの流れ


  • ①各プレイヤーには、手札にはゾンビカード、女性カード、警官カードの3種類がある。毎手番でプレイヤー全員が同時にカードを出す。
  • ②女性カードは高得点。けれど弱い。ゾンビがいなければその得点を獲得。
  • ③警官カードは普通の得点。ゾンビに強い。警官の数がゾンビ以上であれば、得点を獲得。
  • ④ゾンビカードは、無得点だけど、枚数が多い。
  • ⑤全てのカードが出し終わった後、もっとも多くの点数を稼いだ人が勝利。

ゲームの総評


説明がおざなりになるが、とても小さなゲーム。短い時間で、いつのタイミングで女性カードを出すか。それがキモになる。

そう、カイジのEカードのようなゲーム。というか、この説明がハマるゲームなんて無数にあるんだろうけれど。

せっかくだから、ゾンビの絵柄にバリエーションがあってもよかったかもしれない。「美女が、ナースと工事現場のオッチャンとデブのゾンビに囲まれてるっー!」みたいな感じで。

とにかくコンパクトなゲーム。箱も小さく持ち運びが便利。

全然このゲームには関係ないのだけど、PCソフトの箱が大きいことと、ボードゲームの箱が大きいことには似たような理由があるのだろうか、とかそんなことを考えた。

あと全然関係ないけど、ロメロって死んだっけ?

あと僕はゾンビが大好きです。

2012年12月22日 (土)

【ボードゲーム書籍レビュー】大人が楽しい 紙ペンゲーム30選 ★★★☆

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評価:★★★☆[3/4]

プレイ人数:3~100人

プレイ時間:15分~


すべてのゲーマーに捧げられた本。

ゲーム(書籍)の総評


すごろくや』さんから出たこの書籍。発売からちょっと時間が経ってしまったが、ようやく購入した。すごい本だと思う。ルールを集めた本というのは別に目新しいことではない。しかし、ボードゲーム専門店がこの本を出した、ということが一つの大きな意義を持つのではないだろうか。

本の構成としては、以下の3章に分かれている。

  • 3~5人用
  • 6人~9人用
  • 10人以上用

そう、この本は、かなり多人数向け、パーティ向けに書かれている。僕のように子供がまだ幼く、プレイする相手は主に妻だけ、なんて人間にはなかなか使い勝手が難しい本なのだ。

しかし、それでもこの本はすごい。

まず、各ゲームの"すごろくやコメント"がとても誘惑的だ。例えば「ベリシ・ネ・ベリシ」というゲーム。これはトランプを使ったゲームだ。

親がある1つの数字を決めて、それに従って手札を出す。手札のカードは裏返しにして出すのだが、その時に何の数字を出そうとしているか口頭で宣言する。で、嘘だと思う場合は、「ダウト」と他プレイヤーがツッコミをする。

で、このゲームの"すごろくやコメント"には「ルールは『ダウト』に近いのですが、まるで次元が異なる不思議な心理戦ゲームです」とある。思わずやってみたくなる。だってルールだけ読んだら、まさしく「あのダウトと同じじゃん」と思うわけで。何気ない一言だけど、とてもゲームが好きな人に向けて書かれていると思う。ダウトというゲームを分解してみたことがある人なら、食いつくコメントだろう。

また、紹介されているゲーム1つ1つがとても厳選された印象を受ける。だから、読んでいて楽しい。「なぜ『すごろくや』さんはこのゲームを収録したのか」。そんなことを想像しながら読む人にとっては、単なる読み物としても十分元が取れるのではないかと思う。


また、「応用ルール」という項目が多くのゲームで設けられている点に注目したい。基本的なルール以外にもこうしたバリアントルールが多く記載されている意図はなんだろうか?

穿ちすぎかもしれないが、これは書籍のタイトルとも関係しているのではないかと思っている。

僕はすでに30代半ばだが、僕らの世代以降の人にとって、「ゲーム」と聞いて「コンピュータゲーム」を思い浮かべないようにするのはほぼ不可能だ。テレビゲームか携帯型ゲームを指す言葉となって久しい。

しかし、僕らよりほんの少し前の時代では、この「ゲーム」という言葉はもう少し違っていたのだろうと想像する。

それこそ、白紙の紙にペンで描くように、「ルール決め」自体からしてゲームは始まっていた。

いつから僕らにとってバリアントルールは、難易度調整や異なるゲームモードになってしまったのだろう。いつのころから、「基本ルール」がこれほど特権的になってしまったのだろう。

僕たちは、ルールを与件だと思っている。軟体動物のように、好きなように改変できるものだったルールは姿を消して、そこには建造物のようにどっしりと構えたルールがいる。作り手もきっと大変だろう。作り手にだけ、消費者の多様なニーズに応えるよう努力させることは傲慢なのかもしれない。

ゲームが不得意な不特定多数の人に向けたバリアントルールと、目の前にいるAさんやB君に向けたバリアントルールとでは、そのルール内容が全く同じでも、成立プロセスや意図が全然違ってくる。


この違いに、テレビゲームだけをやっている人たちは一切意識が向いていない。ボードゲーマーだけが気にしている。僕はボードゲームに触れて、このことにようやく気が付くことができた。


うまく出来ていないルールと、うまく楽しめなかったプレイヤーとをどう区別することができるのだろうか、とテレビゲーマーは考えてしまうのだ。だから「ゲームとして破綻している」とか「この良さが分からない奴はバカ」とか「下手だから」とか「だめゲー」となってしまう。しょうがないと思う。Creatorはまさしく大文字の創造主であり、世界は制約によって切り取られているのだから。


しかしボードゲーマーは、そんな区別は難しいと直観的に感じ取る。どうやったら今ここにいる人が楽しいかを考える。もちろん努力してもダメなものはダメなのだが、目の前に他人がいると、現実的なその存在を意識せざるを得ない。誤解を恐れず言えば、目の前にいる他人の存在感と比べたら、ボードゲームはちゃんと「おもちゃ」に成り下がるのだ。


まだ3カ月しかボードゲームをやっていないが、そのことを当たり前のこととして捉えている多くのボードゲーマーを目にして、テレビゲーマーだった自分は大変驚愕した。


紙とペンを持って、もう一度ゲームプレイの「現場」に降りてみよう。全てのゲーマーに向けて、そんな意図がこのタイトルと応用ルールという部分に込められているように僕には思えた。

【コラム】コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのか?~「こうどなしんりせん-前編」を読んで

ボードゲーム好きには有名なサイト、『実録:食卓遊戯密着大本営発表廿四時』に、とても面白い記事が載っていた。「こうどなしんりせん - 前編:準備としての一般論」という記事だ。(今更気づいた・・・)。自分はゲームを製作する立場にないので、分かっていない部分も多いのだが、大変興味深く、面白かった。(後編も期待しています。ぜひぜひ続きを読みたいです)

ところで、この記事、ずっと自分が疑問に思っていたこととストレートに重なる。それは、「コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのだろうか?」という疑問だ。「こうどなしんりせん:前編」を読み解きながら、本記事では、この疑問について、一定の回答を与えてみたい。



最近は様々なボードゲームがコンピュータ対戦の形でプレイできる。ボードゲームの醍醐味は、実際に人と対峙しコンポーネントを囲んでプレイすることにあるが、ゲームによっては、コンピュータが相手でも十分に楽しむことができる。しかし、数あるボードゲーム、カードゲームのジャンルの中でも、最もコンピュータ対戦が向かないものが「ブラフゲーム」ではないかと思う。直感的に、コンピュータと「ブラフゲーム」を遊んでも楽しくない、と多くの人が思うだろう。

■ブラフゲーム成立のための1つ目の条件

この問題を考える際のとっかかりとして、「こうどなしんりせん」の記事を振りかえってみたい。ここで「しんりせん」という言葉は、「ブラフゲーム」よりも広い範囲をカバーするだろうが、僕の記事が対象としている「ブラフゲーム」は、その範囲の中に収まると考えている。

さて、「こうどなしんりせん」には、以下のような文章がある。

ある一定のメタレベルにおいて行動傾向を自発的に変えることがどれくらい容易か、という話で、ゆるやかな変化を続けることは可能というより必然であってもドラスティックな変化は相当に難しい、という仮定が「ある種のルールセットという制約下では」成り立つのであれば、心理戦には意味がある

いきなり前後の文脈なしに、この文章を引用してしまうと分かりづらいが、以下のように読み解けると思う。

  1. 人間の行動は何らかの傾向性に従っている。
  2. 性格のように長い年月の中でゆるやかに変わるかもしれないが、短期的にその傾向性が大きく変わったりはしない。
  3. 「傾向性に従う」ことが他者からも類推できる状況をルールセットが破壊しなければ、心理戦は成立する。

先の引用箇所は、プレイするたびに相手の人格が変わってしまうような多重人格者を想像すると分かりやすいかもしれない。人格として一貫性を持たない相手とブラフゲームを遊んでもおそらく楽しくないだろう。上記でいう「心理戦には意味がある」が破壊される状況になるのだ。

ブラフゲームの成立には、このように対戦相手の人格の同一性が条件となる。さっきのラウンドで対戦したBさんは、このラウンドでも同じ人格を有するBさんだ、という前提が必要なのだ。これは「こうどなしんりせん」の記事中の以下の文とも呼応する。

逆に言えばここには「人間は本質的にはランダマイザを持っていない」という仮定があり、心理戦のゲームを作ったり遊んだりするということはこの仮定「も」呑んでおくということでもあります。

ランダムな手を打ってくるコンピュータとブラフゲームを遊んでも、傾向性を読み取ることが不可能となり、ゲームが成立しなくなってしまう。まず第一の条件として、こうした一貫性を持った人格というものが必要になると考えられる。


しかし、「BさんはBさんである」という条件を満たせば、コンピュータとのブラフゲームが成立するわけではない。例えば、現代において、コンピュータに一定の傾向性を持つ人格を持たせることは可能だ。そしてある程度一貫した傾向性を持つコンピュータ(仮にHALと名づけよう)とは、ギリギリのところでブラフゲームは成立する。「嘘をつくのが下手なHAL」とブラフゲームをする、ということは辛うじて想像することができる。しかし、そんな優秀なHALであっても、コンピュータとブラフゲームをすることの虚しさは残るのではないだろうか。

※念のため補足しておくが、そのコンピュータのレスポンスや反応が、人間的でないから興ざめしてしまう、というような事態は、この考察の対象外だ。

例えば、「私」は昨日一緒に楽しくCさんとブラフゲームをプレイしたとしよう。そのCさんが「実は精巧にできたアンドロイドだった」と後になって聞いたとする。これが仮に事実だったとしても、ただちに「コンピュータとブラフゲームは遊べる」という結論に"ならない"と考える。ここでの「私」は、本当のCさん(コンピュータであること)を知ってしまった後、「もしかしたら今後はCさんとブラフゲームを遊ぶのは無理かもしれない(でも楽しかったのは事実だし・・・)」と苦悩する。この苦悩がどこから来るか?ということをここでは考察の対象としている。


■ブラフゲーム成立のための2つ目の条件

改めて、なぜコンピュータとのブラフゲームでは虚しさがあるのか考えてみよう。
一貫性のある人格を持つHALを相手にして、ブラフゲームをプレイする。彼の性格を読み取りながらゲームすることはできるかもしれないが、物足りなさを感じてしまう。それを「虚しさ」と表現した。

その虚しさが生じるのは、「勝利に直結する論理以外を判断できるコンピュータ」を、我々がうまく想像できないからではないだろうか?

例えば、ブラフというのは多くの場合「嘘をつく」ことになる。
  • 髑髏を出しているのに、さも薔薇を出しているかのようにチャレンジ宣言する。
  • 狼であるのに、さも村人であるかのように振る舞う。
  • カエルを出しているのに、ゴキブリです、と言う。
  • サメを出すと不利になるのに、あえてサメを出す。

そして、社会通念上、次のような価値観を多くの人は共有している。
「嘘をつくことは悪いことだ」
その裏返しとして、次のような価値観もほぼ共有されている。
「他人を嘘つき呼ばわりするのは悪いことだ」
また、派生形としてこのような価値観も広く共有されていることだ。
「嘘をついたことを見破られるのは、とても恥ずかしいことだ」。

これらの価値観が共有されることが、ブラフゲームの成立には不可欠ではないか。「相手がどんなにポーカーフェイスを装っていても、きっと嘘を見破られて、今相当悔しいんだろうなあ」とか「ここでは嘘をつかない人だと思ったのに、ショックだ。信じていたのに。」という感情の揺れをお互いに共有できないと、それは虚しさへと引き込まれてしまう。

コンピュータは嘘をつけない。もちろんコンピュータであっても、事実と違うことを発言することはできるだろう。しかし、そこに善悪の概念、恥じらいの概念は存在していない。嘘をつくことに後ろめたさを感じるコンピュータを、我々はまだうまく想像できないのだ。

もう1つ例を出そう。「裏の裏を読む」ということがブラフゲームでは起こる。しかし「裏の裏」が「表」と違う、とコンピュータは判断できるだろうか。もし、コンピュータが「裏の裏」を妥当な手として見たときに、瞬間的に論理展開は「裏の裏の裏」へと遷移してしまう。それは合わせ鏡のように、最初の「表」の手が出ると判断された瞬間に、無限に続く「裏の裏の裏の・・・・」へと導かれてしまう。そんな無限ループに陥るような論理展開(アルゴリズム)は、おそらく無意味だ。

通常、コンピュータは「裏の裏」を「表」と等しいと判断するだろう。そして、「表」も「裏」も可能性として存在する以上、あとは「表」と「裏」のどちらが出るかという確率の問題に収束してしまう。
(※ちなみに"自己言及のパラドックス"にはここでは踏み込まない)

人間の場合はどうだろうか。対戦相手のプロファイリングから、「表」が出ることが妥当だと認識したうえで、「裏」を読むことがある。それを踏まえた上で、更に「裏の裏」を読むということもあるだろう。しかし、ここが実はおかしいのだが、そういう思考ルートを辿ると、「裏の裏」と「表」が違うコトと認識してしまう。

実態としては同じなのだ。しかし、「裏の裏」の方が「表」よりも「後に」導き出されるため、そのように錯覚してしまう。論理展開された結果、それらは原因と結果という質的な違いがあるものと考えてしまう。しかし、それは、あくまでも「あなたがそういう順番で考え、そしてそこで展開を意識的に止めた」にすぎない。しかし、何よりも問題(?)なのは、その違いが単なる一人の妄想ではなく、コミュニケーションをとることで、2人以上の人間の間でお互いに共有できる、という事実なのだ。

勝利を得るためのアルゴリズムを構築する上で、「表」と「裏の裏」を区別する意義は存在しない。しかし、人間同士だと、コミュニケーションによりこうした区別の共有が可能に「なってしまう」のである。

上記に挙げた2つの例。2つともコミュニケーションにより「頭の中にあるもの」の共有を図ろうとする行為だ。そして実は、「頭の中にあるもの」は、勝敗を決する上で、全く不要なノイズなのだ。コミュニケーションの成立により、何らかの「頭の中にあるもの」が生じているように錯覚しているに過ぎない。そんなものは存在しない。本当は、コミュニケーションが成立した事実しかないのだ。(※1)

ブラフゲームは、将棋で言うところの感想戦しかないゲームだ。将棋では論理的思考の結果としての1手という極めて濃密なコミュニケーションがゲームを成立させている。しかし、神の記憶力と想像力をもってしても、決して答えに到達できないようになっているのが、ブラフゲームだ。ブラフゲームで打たれるその1手は、常にその後の感想戦(コミュニケーション)のために存在している。ブラフゲームの1手は、そのゲーム空間において対戦相手をどう思っているか、そして対戦相手が自分をどう思っているか、というきわめて漠然としたまさに「相手への感想」とでも言うものの発露でしかない。

なにより、その「感想」は整合性のとれた実態を必要としない。つまり、「本当にそう思われている」必要や「論理的に正しい思考フローである」必要はない。将棋の1手のような論理的思考の結果ではなく、むしろそういう論理的なものでないからこそ容易に言語化できる「感想」なのだ。

本当は本一冊かけても書ききれないような膨大な対戦相手のプロファイリングが、「あなたはそういうことをやる人だと思った」という一言で一挙に共有できるとこまで到達できてしまう。そうした「感想(=頭の中にあるもの)」という方便の存在を利用したコミュニケーションゲームがブラフゲームではないだろうか。

「嘘をついた(A)」ことと「嘘をつくと思いきや、反対に嘘をつかないようにするだろうと思われていると思ったので、嘘をついた(B)」ことが違わない、(A)と(B)が同じだと思う人は気を付けた方がいい。ブラフゲームを楽しむための方便を信じられなくなってきている。対戦相手と共有できる物語の濃度が薄まってきているのだ。

コンピュータは論理的な手(もしくは分裂病的なランダムな手)しか出せない。ゲームの本体である感想戦を遊べない(=「感想」を共有できない)と思うからこそ、コンピュータとのブラフゲームには虚しさが伴ってしまうのだ。


※・・・補足すると、例えばこれは「人間らしい感情的なもの」という話でもない。感情は副産物として生成されるに過ぎない。重要なのは「共有できた」と認識することだ。
「嘘をつく後ろめたさ(を共有できた)」
「勝負の要でハッタリをかますドキドキ感(を共有できた)」
「深読みしたこと(を共有できた)」
全て、コミュニケーションが成立した後の物語でしかないのだ。


■結論
さあ、以上で道具は揃ったので、最終的な回答としよう。
「コンピュータとブラフゲームを遊ぶことができるのか?」
コンピュータとブラフゲームを遊ぶためには、以下の2つの条件が必要になる。

  1. 人格の同一性
  2. 「感想」の共有

コンピュータで上記2点を実現できる人格を形成できるようにならない限り、コンピュータとブラフゲームは遊ぶことができないだろう。

そして、ブラフゲームが、勝負の決するギリギリのところで最も白熱し、その部分に醍醐味があるようにデザインされていたり、スピード感が重視されているのは、こうした非論理的な「感想」の共有という危なっかしい橋(勝敗上無意味)を渡っているからかもしれない。

そして、ボードゲームを特に好きじゃない人もブラフゲームを楽しむことができるのは、この「感想」を共有すること、伝えること、伝わってしまうことが、かなり根っこの部分で「面白いこと」だからなのだろう。


※・・・本気で、だれか研究している人いないのかな。アスペルガーの人や解離性同一性障害の人とのブラフゲームについて。結構興味深い事象が見られるだろう。きっと似たような研究はあるだろうな。


2012年12月17日 (月)

【ボードゲームレビュー】赤ずきんは眠らない ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](5人プレイでの評価です)

プレイ人数:4~6人

プレイ時間:15分ぐらい


箱!木の箱!すてき。

簡単なゲームの流れ


  • ①プレイヤーのうち一人が配役を決める。配役はオオカミ、赤ずきん、おやぶた、こぶたの4種類。
  • ②オオカミ以外の配役のプレイヤーは、眠るか、トラップを仕掛けるか、決める。
  • ③オオカミは赤ずきん、おやぶた、こぶたのうち誰を食べるか決める。
  • ④食べに行ったところにトラップが仕掛けられていたら、オオカミは失点。トラップを仕掛けた側は得点。逆に無事に眠れたプレイヤーは得点。食べられたら失点。
  • ⑤最も早く10点獲得した人が勝利。

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ゲームの総評


すごい。シンプルな中にちゃんと全てがとてもキレイに詰まっている。こういうかわいい絵柄じゃない方が良いのでは?と思ったが、まあ、趣味の問題だろう。

コンポーネントも素晴らしく、ほぼ欠点のない作品だと思う。

しかし、(あくまで個人的に)購入する気持ちにまで至らなかった。

例えば、これを、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんなどの家族とプレイするような光景を想い描くと、とても不自然な感じがする。

誤解のないように言えば、それは全然悪いことではない。全ての人に愛される必要など、どこにもない。長く愛される作品である必要もない。そういうモノが目指されるべきとも思わない。そういう観点は、この作品の完成度を貶めるものでは全くない。

しかし、この作品の持つ匂いは、極めて狭い範囲の世界感を濃密に共有していることを求めてくる。ほとんど直感的に「これは私に向けたゲームではないのだろう」と思ってしまう人がいるだろうと思う。正直言うともったいないと思う。完全に余計な御世話な感想なのだが。


この作品は、後年、特に同人のボードゲーム界を語る上で、一つのメルクマールになるのではないか。
だからこそ、どこへ向かうのか、とても期待している。

2012年12月15日 (土)

【ボードゲームレビュー】盗賊ロワイアル! ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](4人プレイでの評価です)

プレイ人数:2~4人

プレイ時間:25分ぐらい



なるほど。そうか。分かった。うん。

簡単なゲームの流れ

  • ①場に宝物を伏せて置く。宝物の価値はそれぞれ異なる。
  • ②各プレイヤーは、4人1組の盗賊団を率いている。
  • ③プレイヤーは、置いてある宝物の一部を見ることができる。
  • ④プレイヤーは、盗賊団のうちの1人を、どれかの宝物に配置する。
  • ⑤各宝物ごとに、もっとも戦闘力が高い盗賊を置いた人がその宝物を獲得する。何回か繰り返し、もっとも宝物を獲得した人が勝利。

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ゲームの総評


なるほど。よく出来ている。バランスを取るために、いろいろな要素を入れていったのだと思う。そして最終的には、いろいろと削ったりもしたのだろう。

でも、4人でプレイすると、テーブル上がとてもごちゃごちゃする。いろんなコマやマーカーが置いてあって、1つ1つをじっくりと見れば、戦略を立てることもできるのだろう。しかし、ごちゃごちゃしているので、見て考えるのが面倒になってしまう。

ゲームが完成するときに、この「盗賊ロワイアル!」より遥かに低い完成度でリリースされるゲームというのも多いと思う。しかし、完成度が低くても、このゲームより面白いゲームができてしまうことがあるのではないか。

なんというか、ゲームを作るのは、なんと崖っぷちな行為なんだろうかと思ってしまう。

2012年12月 8日 (土)

【ボードゲームレビュー】巨竜の歯みがき ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](4人プレイでの評価です)

プレイ人数:3~5人

プレイ時間:15分ぐらい


シンプル。要素がたんまりでありながら、奇跡のようにまとまっている。

簡単なゲームの流れ

  • ①各プレイヤーは1~8の数字が書かれた8枚の歯ブラシのカードを持つ。
  • ②スタートプレイヤーがドラゴンカードの山札から一枚めくり、中を見て、1枚の歯ブラシカードを表にして出す。(ドラゴンカードを伏せたままにして、他のプレイヤーには見せない)。
  • ③他のプレイヤーは、スタートプレイヤーが出した歯ブラシカードを見て、自分の歯ブラシカードを一枚出す。
  • ④一斉にオープン。スタートプレイヤーは、ドラゴンカードをオープン。プレイヤーの出した小さい数字から足していき、ドラゴンの数字を超えたタイミングの歯ブラシカードを出したプレイヤーは、失点(=ドラゴンに食べられる)。
  • ⑤最も歯ブラシカードをうまく出して得点を重ねた人が勝利。

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ゲームの総評


とても完成度の高いゲーム。一つ一つの仕組みやアイデアが素晴らしく、ルールを聞いた段階では、「これ買いたい!」と思った。イラストも素晴らしく、あらゆる面で高品質だと思った。

そしてプレイしてみて思ったのが、「平坦な印象があるなー」ということだった。ドラゴンに食べられても、あんまり悔しくない。なぜなんだろう。

思考のきっかけみたいなものがモワーっとしているからかもしれない。ヒントが少なくて、戦いに向けて臨戦していく時のような興奮がない。

例えば、「髑髏と薔薇」だったら、「場に出ている世界全体をだいたい把握しているけれど、一部不明確な部分があるため、把握しているはずの世界全体が定まらない」という感覚がある。
その思考の先にゴールはないが、この明瞭と不明瞭の間を行き来する。このダイナミズムが面白いのだと思う。

「巨竜の歯みがき」は、ずっと世界が不明瞭のままで、はっきりとした輪郭を持つタイミングがあまりない印象がある。世界がなかなか像を結ばないのだ。平坦に感じたのはそのあたりかもしれない。

実際は、誰が何のカードを残しているか、とか色々と考えるヒントはあるのだけど、思考が発散してしまう印象がある。

あと、欠点がないように見えるけど、実はとても魅力的な欠点があって、それは「ドラゴンの数字が見にくいこと」。これすごく素敵だと思う。こういう抜きどころのセンスは凄いと思う。

あと、食べられた時、カードを横向きにする、というのだけだと寂しい。もっと食べられた感が欲しかったが、それは贅沢な悩みかもしれない。

ゲーム自体としてはとても素晴らしいと感じた。しかし、今一歩購入にまで至らなかった。



【コラム】初プレイの人にボードゲームのルール説明(インスト)をすることの難しさは、一体どこにあるのか?(3)

注:この記事は、インストのための方法論を書いたものではないです。インストのための方法論をいくつか読んで、そこに共通するものについて書いた記事です。前々回の記事内には、そうした素晴らしい「インストのためのガイド」へのリンクがあるので、具体的な方法論については、そちらのサイトを参照願います。



前回は、インストと新しい言語を学ぶ時のアナロジーから、インストの難しさがどこにあるか、ということを示した。

今回は、その難しさがボードゲーム特有のものである点について書きたい。

■ボードゲームを理解するには

では、結局インストをするには、どのようにすれば一番いいのだろうか。ここでキーワードになると思っているのが、「身体性」だ。

まあ、何かと色々な場所で言及されている単語で、最近では「バズワードじゃないか」と思わなくはない。ちなみにメルロ・ポンティも「知識創造企業」のおじさんも関係ないです。念のため。もっと素朴に「身体」を指していると思っていただければいい。

ボードゲームには、「身体的」な要素が比較的多い。現在、日本でゲームと言えば、テレビゲームを指すことが多いが、テレビゲームは「身体性」を極端に喪失させた遊びだ。しかし、ボードゲームは、カードをめくったり、サイコロを振ったり、コマを進めたり、会話をしたり、多くの身体的な動作を要求する。スポーツなどに比べれば、遥かにそれは抽象化されているが、テレビゲームよりも、そのバリエーションはずっと多く、豊かだ。

新しい言葉を覚える時、読むよりも書くこと、書くことよりも話すことが「身につける」という意味において効果がある。それは、より身体的であるからではないだろうか。

例えば、ドミニオンを説明するとき。いろいろとルールやカードの効果を説明するのは当然だが、「このゲームって、すごい回数のシャッフルをするんだよね。結構、ずっとシャッフルしてる」と言われる。

この情報は、ドミニオンのルールを理解する上では、ほとんど意味がない。けれど、ドミニオン自体を「理解」するのに、この説明はとても有意義だと思う。

そして同じくドミニオンを例に出すが、「廃棄カード置き場」というカードがある。このカードの存在は、すごく身体的だ(その場所に、手でカードを置くことで、カードを廃棄できる)。TrashとDiscardの違いを空間的に訴えることで、このゲームのルールで一番誤解しやすい箇所を身体的に説明しようとしている。本来、その違いを概念的に理解できれば、ルール上は、こんなカードは不要なのだ。(全てのコンポーネントは、この身体性に繋がるかもしれない。しかし、それはまた別の話)

身体の持つアナログ性が、ルールの機微を補う。全く異なる言語体系が、身体性を通して連携し始める。「こんなにシンプルなルールなのに、ルールブックには結構いろいろ書かれているな」と思うことがある。きっとそのルールが人間の「身体」にフィットしているからこそ、シンプルなのだろう。

しかし、多くの場合、新しいボードゲームを初めてプレイするというのは、外国に初めて訪れることと同じだ。だから、難しくて当然なのだ。新しい言葉を覚えること自体が好きな人もいれば、それをわずらわしいと思う人もいる。その国の言葉を完全に話せるようになるまで、入ってきてはダメです、と言われたら、その国に訪れる人はいなくなってしまうだろう。

だから、インストをする人は、未知の国の大使のようなものだ。全く異なる文化や風習をどのように紹介するか。それは困難で悩ましい問題だが、そこは、同じ身体を持つ人間同士、突破口があるはずだ。

異文化を理解するには、その結節点となりうる「身体的」な説明が有効になるのではないか。そして、そういう説明からは、ルールという無機質な情報以上に、そのゲームが持つ「肉体」のようなものを伝えられる気がするのだ。

そして、何よりもそこにこそ、テレビゲームでも補えないボードゲーム特有の魅力があるのではないか。ルール説明の難しさから、ふと、そんな「希望」のようなものを想った。


※追記:記事を書いてから、あの有名な「遊星からのフリーキック」の「ルールブックの文章」というコラムを拝見しました。半分冗談なのだろうけど、"ボードゲームルール言語"というのは示唆に富む着想。これ、ルールを記述するためというよりもむしろ、ボードゲームを批評(レビュー)するためのツールとして使えるかもしれない。1つ1つの言葉にどうやって知識を蓄積していくのか、イメージがあるわけではないのだけど・・・








2012年12月 6日 (木)

【ボードゲームレビュー】ブリっとでるワン ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](4人プレイでの評価です)

プレイ人数:2~4人

プレイ時間:15分ぐらい


音。全ては音。この音を聞くために(聞かせるために)、これは買う価値があるおもちゃだと思う。

簡単なゲームの流れ

  • ①犬に餌を食わせる。
  • ②各プレイヤーは手番ごとにサイコロを振り、出目の回数だけ、リードについたグリップを握る。
  • ③何回かグリップを握ると、出る
  • ④出たモノをその時にグリップを握っていたプレイヤーのスコップに置く。
  • ⑤3回分のモノをスコップに置いた人が勝利。

ゲームの総評

ウンコが出る瞬間が面白いのは、言うを待たないが、実はウンコが出る前までがめちゃくちゃ面白い。ひたすら、不気味なビープ音が響き渡るのだ。

音。全ては音。この音すごい。子供がいたら、狂喜乱舞すると思う。なんというか、ネタゲームであることは間違いないのだけど、圧倒的なパワーを感じた。ゲーム自体も成立しているのかどうか怪しい。戦略も何もない。ほぼ運だし。

これ、自分の子供に買い与えるのはいいけど、他人の子供にプレゼントとしてあげたら、めちゃくちゃ(その親に)嫌がられそうだ。でも、きっと子供は異常に食いつくはずだ。

日本では、タカラトミーから発売されていて誤解されているようだが、海外で多数の賞を受賞しており、日本産のゲームではない。元々のおもちゃの名前を"Doggie Doo"という。

素晴らしい商品だと思う。奇跡の一品。

※誰かがこれの"すーぱーそに子バージョン"とか作るんじゃないかと思って戦々恐々としている。


【ボードゲームレビュー】ロビンソン漂流記 ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4]

プレイ人数:1人

プレイ時間:30分ぐらい


一人で遊べるって素晴らしい。・・・・でも、勝てねぇ。

簡単なゲームの流れ

  • ①災厄カードの山札から2枚カードを引いて、どちらかの災厄を選択する。選択した災厄(猛獣とか洞窟探検とか)がロビンソンに降りかかる。
  • ②ロビンソンの山札から複数枚のカードを出して、カードの戦闘力の合計値が、災厄値を上回れば、その災厄を撃退できる。(災厄ごとに出せるカード枚数が決まっている)
  • ③撃退できた災厄は新たなロビンソンカードととして、対災厄用に戦闘力として使用することができる。
  • ④災厄カードの山札全てめくり、一巡したらステージが進む。3ステージ目が終わったら、ラスボスの2隻の海賊船が登場。
  • ⑤海賊船が撃退できたら勝利。それまでに体力(初期値HP20)を失ったら敗北。

ゲームの総評


自分はシャッフルが好きだ。まあ、それほどドミニオンもプレイしているわけじゃないし、大量にシャッフルばかりをやっていたらシャッフルが嫌いになるかもしれない。しかし、現時点においては、自分はシャッフルが好きだ。

そういう人、意外といるのではないだろうか。

強いカードを追加していき、弱いカードは廃棄していく。それを繰り返し、より強いデッキ作り上げていくデッキ構築型ゲーム。ロビンソン漂流記は、それを一人で遊べるようにした色々な意味で優しいゲームだ。

シャッフルが好きな自分としては、このゲームはとても良かった。使い切ったデッキを何度もシャッフルしていると、それだけで楽しくなってくる。

しかし、ゲーム自体の難易度はとても高い。初めてのプレイの時、初期HPは20だが、全3ステージのうち、2ステージに入った段階で、HPが6ぐらいしかなかった。こんな状態で、更に難度が上がる最終ステージおよびラスボスの海賊船なんか倒せるのか?不安な気持ちのままシャッフルを続けた。

それでも、初回プレイでは、運良く海賊船まで到達した(後半は危険な災厄から逃げまくった。昔RPGで逃げまくってダンジョンを無理やり進んだ記憶を思い出した)。しかも、1隻の海賊船はなんとか血だるまになりながら撃退できた。残りのHPは1。瀕死の状態で2隻目の海賊船に立ち向かったが、瞬殺されてしまった。

2回目のプレイでは、海賊船に到達する前に死んでしまった。

3回目、より慎重にプレイしてみた。まず、初期段階で不要なカードを廃棄(いわゆる圧縮)しすぎないように考慮した。できる限り弱い災厄に対して、確実な勝利を積み重ねた。

すると、結構あっさりラスボスまで到達。2隻の海賊船にはそれなりに体力を削られたが、HPは最後に9を残して勝利するに至った。

いやあ、たった一人でプレイしていたけど、ガッツポーズが出た。楽しい。いいバランス調整だ、と初めて思った。

コツは「ロビンソンカードをあまりめくらないようにする」という事ではないだろうか。全てのロビンソンカードを使い切ると、1枚だけ衰弱カードという激弱カードをデッキに加えてシャッフルすることになる。なので、使い切るたびにデッキが弱くなってしまう。

あまりカードをめくる必要がない弱い災厄を選ぶことで、デッキが循環するスピードを減速することが重要ではないか。シャッフル好きとしては少しだけ寂しい戦法だが。

実際のところどうなのだろう。よく分からない。もう少しプレイしてみる必要がありそうだ。


※ところで、特殊な効果で、警戒段階が"-1"になるカード(読書してるカード)がある。ルールブックの説明文だけ読むと、ステージが一段階前に戻ってもよさそうに見える。しかし、さすがにそれはなくて、その戦闘の時だけ、警戒段階が"-1"の災厄値を適用する、ということなのだろう。(当たり前かもしれないけど、一応メモとして書いておこう)

2012年12月 5日 (水)

【ボードゲームレビュー】藪の中 ★★★☆

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評価:★★★☆[3/4]

プレイ人数:3~4人

プレイ時間:20分ぐらい


すごい完成度。見た目もおしゃれ。「藪の中」空間に一気に引き込む力強さ。凄いゲームだ。

簡単なゲームの流れ

  • ①裏に白紙および2~8の数字が書かれた人型のカードが8枚ある。各プレイヤーにカードを1枚ずつ配る。
  • ②全員が、配られたカードを見て、それを右隣のプレイヤーに渡す。
  • ③中央の場には、4つの人型カードが配置される。そのうち1つは遺体。3つが容疑者となる。
  • ④3人の容疑者のうち最も数字が低いタイルが犯人となる。各プレイヤーはその3人の容疑者のうち2つのカードの裏を見ることができる。
  • ⑤各プレイヤーは、自分が見たカードの情報を総合して、犯人カードが3人の容疑者の中のどれかを予想する。外れると失点。誰かが失点を5つ以上重ねると終了。最も失点の少ない人が勝利。

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ゲームの総評

素晴らしいゲーム。唸った。シンプルさと複雑さの配合が絶妙。こういう作品がボードゲームの世界を多くの人に広げていくのだろう。見た目がいい、というのはとても偉大なことだ。この力は説得力になる。

様々なモノが、人生の中でこれは時間を費やすに値するものか、と判定されている。テレビやスポーツや映画や音楽・・・、この判定において勝負できるボードゲームがどれだけあるのだろう。その判定は偏見に満ちていて、傲慢で、テキトーなものだ。

今年のエッセン新作のゴテゴテとした名作たちに自分はとても興味があるし、きっと面白いのだと思う。そういう重いゲームも大好きだけど、やはり多くの人にとって説得力に欠ける。時間を割いてもらうための説得力に欠ける、と思う。

その偏見に満ちて、傲慢で、テキトーな世界でも勝負できる力が「藪の中」にはある。

別に重量級ゲームが、いいとか悪いとかではない。けれど、こういう作品が国産ゲームとして出てきていることが、日本のボードゲーム界にとって堅牢な礎になると思う。レベルの高い作品が業界の土壌のクオリティを数段階レベルアップさせる。

正直言うと、最初、「価格高いなー」と思ったけど、しょうがない。元は取った。

欠点としては、箱が開けにくいことぐらいかな。でも、手触りが良くて好きな箱だ。

あと2人プレイが新装版では対象から外されているようだ。一応自分は、以下のルールでプレイした。

『2と8のタイルを取り除く。』
それ以外は全部一緒。

プレイ人数として、2人プレイを外したのはうなずける。確かに2人だと、いつブラフをかけるかという単純な勝負になりがち。それでも面白いと思うけどね。
(ちなみに、新装版が出る前は、対応人数が2人~4人となっていたと想定して書いています。昔から、2人プレイは推奨されていなかったりするのかな?勘違いしてたらごめんなさい)


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