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2013年8月

2013年8月24日 (土)

【ボードゲームレビュー】レジスタンス ★★★☆

Resistance_01

評価:★★★☆[3/4](6人プレイの評価です)

プレイ人数:5~10人

プレイ時間:30分


脱落なし。5人からできる人狼系ゲーム。

簡単なゲームの流れ

  • ①各自に役割カードが配られ、スパイ2名、レジスタンス4名に分かれる(6人プレイの場合)。自分の役割が何かはゲーム終了時まで秘密にする。
  • ②リーダーを1人決める。リーダーはミッションを遂行するメンバーを決定する。
  • ③遂行メンバーの選定について、全員で投票を行い、承認か否決を行う。
  • ④遂行メンバーは成功か失敗のどちらかのミッションカードを1枚出す。全てのミッションカードの中から1枚でも作戦失敗カードがあれば、そのミッションは失敗する。
  • ⑤5回ミッションを行い、3回以上ミッション失敗したらスパイ側の勝ち。そうでなければレジスタンス側の勝ち。

Resistance_02


ゲームの総評


人狼系と言われるレジスタンスだが、レジスタンスではゲーム途中での脱落がない。これはやはりとても大きな利点だと思う。しかしレジスタンスをプレイして、逆に人狼の「脱落システム」にも長所があるんだなと改めて思った。

人狼は脱落しても決して負けではない。自分の所属するチームが勝てばいい。しかし、多くの人は何となく脱落するのが嫌だと思っている。これが人狼をドラマティックにしている。ゲームとして見た時、人狼もレジスタンスも、村人で勝利or敗北、人狼で勝利or敗北の4パターンしか結果はない。(レジスタンスの場合は村人をレジスタンス、人狼をスパイと読み替えていただきたい)

しかし、脱落というシステムがあることで、人狼はアドベンチャーゲーム化する。1日目に襲撃されて死ぬことと、3日目で処刑されて死ぬのとでは、同じ脱落であってもゲーム体験の「意味」が違ってくる。どちらがよりバッドエンドなのかは展開によるだろうが、いずれにしろ、そこには体験の価値としての軽重が確実にある。そして、その事は場合によっては最終的な勝敗よりもずっと重い「結果」であったりする。

一方で、脱落のないレジスタンスはディベートとしての面白さが強く前面に出ている。「あーでもない、こーでもない」とみんなで議論する楽しさは折り紙付きだ。「こんな些細な行為にも議論するネタが潜んでいるのか」と気付いていくプロセスはえらく楽しい。

人狼もそうだが、レジスタンスをプレイした後「埒もないことを、なぜみんなは必死に話し合っていたのだろう」とフッと冷静になることがある。決して論理的には結論に到達しないのに、みんなが必死になって他人を説得しようとする。どれだけ一生懸命走っても、決して前に進むことがないハムスターの歯車のような虚しさ。でも、この虚しさを、人狼は死(脱落)と隣り合わせというその緊張感で補完している。補完と言うよりむしろお茶を濁している。

これは皮肉ではない。華麗な手際でお茶を濁している所が人狼の魅力なのだ。それはつまり、初心者の中には「別にゲームに最後までずっと参加していたいわけじゃない」という欲求があることを示している。ある意味、ゲーム好きにとっては裏切り行為のような願望さえ許容する包容力が人狼にはあるし、それが人狼の感染力の強さだったりする。(僕たちは、処刑されたり、襲撃されてホッとしている人をこれまで何度となく見ている。彼らが「人狼はもう嫌だ。二度と参加しない」となるかというと、意外にも全てがそうでもない)

しかし一方で、レジスタンスは「ゲームであること」に潔癖だ。最後まで絶対的に参加を強制する。僕はその潔癖さがなんか好きだ。そういう少し頑固そうな感じ、融通がきかなさそうなレジスタンスの特徴が僕にとっては魅力でもある。

ゲームが終わった後の目ざめの後のようなぼんやりとした状態。まだ夢が続いているような、いないような、そんな気分を味わいながら、騙した快感、騙された快感を反芻する。レジスタンスが終わった時のみんなの表情が実にいい。小憎らしくて、ニヤニヤしていて、ショックを受けている。そういったみんなの表情を見るのが無性に楽しい。脱落なく全員が最後まで参加できる良さは、みんなの表情を見る楽しさ、そして逆にみんなから表情を見られる楽しさにも出るんだろうと思う。

以前、海外のレビュー記事(一部)を翻訳した記事があるので、そちらも参考までに。⇒海外で人気?!人狼系ゲーム「レジスタンス」レビュー


評価★★★☆とした理由……素晴らしいゲーム。唯一の欠点はカード裏のデザインが非対称になっているカードがあるという点ぐらいじゃないだろうか(非対称だと単にシャッフルするだけだと、誰が出したか分かってしまう)。傑作だと思う。

2013年8月15日 (木)

【ボードゲームレビュー】キャット&チョコレート(ビジネス編) ★★☆☆

Catandchoco_business_01

評価:★★☆☆[2/4](4人プレイの評価です)

プレイ人数:3~6人

プレイ時間:30分


お話し構築ゲーム。

簡単なゲームの流れ

  • ①手札としてアイテムのカードを各自3枚持つ。場には、お題のカードの山札がある。
  • ②お題には、何らかのビジネス上のトラブルが描かれている。
  • ③各手番では、お題カードをめくり、そのトラブルに対して、手番プレイヤーは自分の手札のアイテムを使った解決策のお話を即興で作り、それを語る。
  • ④他のプレイヤーはその解決策が妥当かどうかを判断し、過半数が妥当だとみなせば得点を得られる。
  • ⑤山札からエンドカードが出たら終わり。合計した得点が高いチームの勝ち。


ゲームの総評


今回初めてキャット&チョコレートをプレイしてみて、すげえよく出来てんなー、と思った。同じトラブル(お題)であってもプレイする度に使えるアイテム数が変わるところとか。一見するとほとんど無意味に見えるチーム戦の仕組みが、最後にゲームとしての最低限の感想を引出すに留めるところとか。お題の内容も、それだけで微笑ましくなる感じで面白い。

とは言え、このゲームの魅力はお話を作る気持ちよさにある。カラオケと同じで、自分の荒唐無稽な物語を連綿と紡いでいくのは、とても気持ちがいい。ゲームプレイの大部分が何かのルールに則った行動というわけではなく、自分の表現を発露する時間になる。好きな人は好きなんだろうな、と思うと同時に、僕を含め苦手な人にとっては、苦手だなあという印象が強く残るゲームだろう。

そう、僕は凄くこのゲームが苦手だ。お話しを作ることは、もちろん苦手だし、他人の作るお話を評価するのも頭を使う。馴れ合うような評価を下したら、とても相手に失礼だと思う一方で、ツッコミを入れるにも理由(解釈)がないといけない。常に色々と考えなければならないので、凄く疲れる。いっそのこと、これが点数にならなければいいのに!とも思ったほどだ。

そんなわけで、個別戦ではなくチーム戦とするルールがあることが、苦手な僕には何となくありがたかった。

お話を作るのがとても苦手だからだろうけど、観戦はしてみたいと思う。例えば、このゲームを「もし映画監督の園子温がやったらどうなるんだろう」とか想像するとすごく楽しい。自分の興味があるジャンルの有名人を集めたキャット&チョコレート。そんな試合があるなら、是非見たい。(園子温を例に挙げたのは、たまたま最近「愛のむきだし」を見たから)

あと、このゲームの独特のイラストが不思議な印象を与える。フィルムフィクサーの時も少し気になったのだが、とても奇形的で複雑な気分にさせるイラストだ。バタ臭いアメコミ風にも見えるが、日本の漫画のようでもある。嫌いなイラストでは全然ないけれど、なんだか見ていると、とても不安になる。不思議な絵だ。


評価★★☆☆とした理由……僕がお話しを即興で作るのがとても苦手なので、全然うまくできなかった。幽霊屋敷編とかどんなアイテムやお題があるのかは知りたいけれど、やっぱり上手くできないんだろうなあー、と怯んでしまう。

2013年8月12日 (月)

【コラム】なぜソーシャルゲームを嫌悪するのか?そしてなぜボードゲームは人とプレイするのか?

■なぜソーシャルゲームを毛嫌いするのか?

唐突だが、ソーシャルゲームを食わず嫌いしている人が結構な数いる。かくいう僕もその一人だ。たいしてソーシャルゲームをプレイしてもいないくせに嫌っている。なぜやりもせず毛嫌いするのか?

その理由について社会学者の大澤真幸氏のこの書評を読んで思ったことがあるので、書いてみたい。そしてそれはなぜ僕がボードゲームを人とプレイするのかという理由とも関連していると思ったので、そのことも併せて書きたい。

この大澤氏の長い書評は、掲載当時にかなり話題になったので読まれた人もいると思う。あのNHKの番組で有名になったハーバードのサンデル教授の本の書評だ。さっそくだが、僕自身が今回注目したのは書評の中の以下の文章だ。

  • "行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。"

この具体的な例として赤ん坊を養子にする話が書かれている。

  • "ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。"

赤ん坊を養子とする際、商品のように値段を付けてしまうと、赤ん坊は途端に低級な「道具」に堕してしまう。なぜ商品のように扱うことが低級なこと、下劣なことに見えるのか。それを大澤氏は次のように説く。

  • "金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染する"

手段は目的に交換するための媒介物だ。お金は汎用的な「手段」である。だからこそ、お金のような「手段」ではなく、「それ自体目的になってい」ることの方がより「高級」に見える。

これは別にむずかしい話ではない。この書評にも例として書かれているが、他人にプレゼントを渡すとき、現金ではなく物をプレゼントする方が上品とされている理由と同じだ。現金の方が遥かに有用性が高いにも関わらず、むしろその有用性こそが「現金は下品だ」と思わせている理由でもある。

何か別のものに置き換え可能であること(=交換可能)は、そうでないもの(=交換不可能)に比べてその価値が低くなる。ユニークであることの方が、崇高に(高級に)感じられるのだ。理由なく「ただ端的に正しい」ことの方が、より根源的であるように感じる。例えば、「他人に嫌われないために」嘘をつかない人よりも、単に「嘘をつくことは嫌いだから」嘘をつかない人の方が高潔であるように思ってしまう。それは嘘をつかないことが単なる手段だと思うとイヤな気分になるからだ。行動が全く同じでも、そう感じてしまう。

実はソーシャルゲームに対する嫌悪感は、こうした交換可能なものへの嫌悪感ではないかと思っている。そしてその背後には必ず「交換不可能性への畏敬」がある。

単にゲームへの対価として課金を考えると、Free-to-playのアイテム課金の方がずっと良心的なはずだ。100円を払えば100円を払った分の利益を享受できる。いきなり大金である6800円を払って、全然楽しめない可能性を内包している商売と比べて、どちらが消費者にとってリスクが高いかは言うまでもない。

しかしそれでも、僕たちは、プレイ前に6800円を払うことの方が崇高だと考えてしまう。それはなぜなのか。それは、アイテム課金という仕組みが「交換可能な体験である」ことを常に僕に意識させるからだ。「今、このゲームを楽しんだ」というその経験が、今その場で払った100円、1000円に相当することを、アイテム課金の仕組みでは頻繁かつ強く意識させられる。その頻度と結びつきの強さが問題なのだ。私の体験がコマ切れにされて、その1つ1つが何円に相当するかを意識させられることが怖い。僕の食わず嫌いはこの「怯え」から来ている。

だから、僕のようなソーシャルゲームを食わず嫌いしている人間でも、すべての課金システムを嫌っているわけではない。例えば、月額課金のようなシステムに対してはかなり寛容になれる。課金に対する嫌悪感は、グラデーションのようになっている。0か1かで嫌っているわけではない。月額課金であれば、その「意識させられること」が月に1回で済むし、その「体験」と「金額」の結びつきは比較的ゆるやかだからだ。1カ月の中でどのように楽しむかには、大きな振り幅がある。

しかしアイテム課金では、その意識の回帰が頻繁にやってくる可能性を否定できない。僕の楽しい30分や60分が何円なのか。精度高く定量化されればされるほどに、その楽しみは目的ではなく、手段としての交換可能性に開かれていく。つまり「ホントはその遊びではなくてもいい」可能性に気付き、ゲームをすることが何か別の目的のための手段に堕することを怯えているのだ。

思い返せば、好きなゲームに対して「6800円に相応の楽しさだった」と評価することはほとんどない。逆に、そのゲームが嫌いであればあるほど、金額で評価することに抵抗がなくなる。「このゲームは1000円程度だった」とか「2000円でも高い」とか。しかし愛のあるゲームに対して「1万円の価値があった」とは微妙に言いづらい。せめて「1万円で買っても後悔しない」という言い方になる。そこには、どうしても定量化できない余地を残しておきたいという思想、まさしく「交換不可能性への畏敬」の念がある。

だから、「アイテム課金で6800円分の課金をしたら、パッケージゲームの6800円以上の楽しみが享受できるよ」とどれだけ説得しても、無駄である。正しいか否かに関係なく、決してその言葉はソーシャルゲームを食わず嫌いしている人には通じない。なぜなら、その交換可能性こそを嫌悪しているからだ。射幸心によって煽られ、金銭感覚などの計算能力が麻痺することを恐れているのではなく、むしろ逆に何らかの目的のための手段として冷静にゲームを扱ってしまうことを恐れているのだ。



■なぜボードゲームは人とプレイするのか?

そんなソーシャルゲームの隆盛というデジタルゲームの大きな転換期にあって、僕はアナログなボードゲームと出会った。ボードゲームを最初購入する時の正直な感想を言えば、「結構高いな!」だった。それでも思い切ってカルカソンヌを買って箱を開けてみて更に驚愕した。「なんという上げ底(?)だ!」と。

僕はテレビゲームを愛していると思っていたが、それでも定量的で交換可能な価値感に毒されていた。多くのゲームで、プレイ時間の長短(ボリューム)を強く意識していた。そのことに改めて気が付いた。「単にプレイ時間が長ければ良作というわけではない」と言いながら、何十時間も楽しんだゲームの方が短時間しか遊べなかったゲームより価値があると素朴に思っていた。ある時を境にファミ通がクリアまでの想定プレイ時間をクロスレビューに載せるようになった。僕はそのことにそこはかとない嫌悪感を抱きつつ、しかしその情報はしっかり読んで吸収していた。矛盾したその姿勢。

そんな悪い癖を引きずるように、僕はボードゲームの値段をプレイ回数で割ってみたことがある。しかし、そんな行為の虚しさを直ちに思い知るのもボードゲームの良いところだ。「1プレイあたり1000円か。まだ元を取ってないな」と頭で計算できても、単純には思い切れないのがボードゲームなのだ。なぜだろうか?

僕はその最も大きな理由が「人と顔を突き合わせてプレイする」という点にあるだろうと思う。先程の赤ん坊を養子にする話と同じで、僕たちは人を金に換算することに嫌悪感を持つ。人を金で買うことに、倫理的な嫌悪感を抱く。これは値段を高く評価すればいいとかという話ではない。目の前に息をして座っている人と楽しく遊んだ時間をお金に換算することのやましさ。楽しさの大小はそれぞれだろうが「あのプレイは1000円分に相当するな」とか「あのプレイは200円程度の価値だった」とは、意外に上手く考えることができない。「目の前に人間がいることの迫力」をうまく計算できない。8800円のボードゲームを、5回プレイしようが、50回プレイしようが、交換不可能な体験に昇華しやすいからこそ、その崇高さを維持することができる。

仮に、ボードゲームにスマホ用の対戦AIアプリが同梱されるスタイルが一般化したとしよう。そうした「機械相手にボードゲームを楽しむ仕組み」が発展したとしたら、おそらくデジタルゲームのように金額をプレイ時間で割って、高いコストパフォーマンスを求める人が確実に増えるだろう。そのAIが人間と区別がつかないほど精巧であっても、それは関係ない。そういう機能性の問題ではないからだ。AIであれば、値付けすることへの遠慮はなくなり、いつでも、より良いAIへと全く躊躇なく変更(交換)できる。

かけがいのない体験としてのゲームプレイ、それ自体が目的であるという「ゲームプレイ」。それ自体が目的でなければ、「ゲームプレイ」は手段になり、別の行為に交換可能になってしまう。「それ」をプレイしなければならない理由も(本当は)霧散してしまう。そのために僕たちは「○○のため」という理由に対して、どこか無自覚でなければならない。

僕たちがボードゲームでなければならないと思っているその交換不可能性は何なのか?その理由を問う行為は、皮肉にもその交換不可能性を相対化して交換可能なものに変化させてしまいかねない。たとえ今現在ボードゲームを「実際に」楽しんでいたとしても、いつの日かそれが他の娯楽にとって代わってしまうかもしれないという「怯え」は、ソーシャルゲームの交換可能性に対する「怯え」と根を同じにしている。

しかし、こうした「怯え」を巧妙に回避するための仕組みがまさしく「人とプレイする」という行為であり、その「目の前に人間がいることの迫力」による計算能力の麻痺なのだ。人とプレイするというその1点を維持し続ける限り、僕たちはボードゲームの交換不可能性をかなりの強度で確信することができるだろうし、その仕組みによりボードゲームへの「愛」を救われることもあるだろう。

人とボードゲームをプレイすること(語ることも含め)は、そのゲームを味わうための手段である。しかし一方でその手段こそがボードゲームの崇高さを支えていたりもする。そのため、僕は時に「人と遊ぶためにボードゲームをプレイしているのか」それとも「ボードゲームを遊ぶために人とプレイしているのか」そのどちらが本質であるのか分からなくなることがある。

しかし、このよく分からないという状態こそ、「ゲームプレイ自体」が目的であることに(まだ)近い状態なのではないかと思う。何か明確な目的Xのためにボードゲームをプレイし始めた瞬間に、その神聖さは音を立てて崩れてしまうだろう。

理屈っぽく愛を語る人よりも、愛する理由を知らない人の方が美しく見えるのは、そういうことだ。子供が母親を愛するのは、決して育ててくれるからではないし、そう思うからこそ子供の無邪気な愛情は崇高なのだ(だからこそ実際に子供がいかに狡猾であるかを知る時、一瞬僕らは戸惑う)。

もちろん、世の中には(そしてボードゲーマーの多くは)なぜ「私がこれを好きなのか」についてついつい理屈っぽく考えてしまう人も多いだろう。しかしそんな人でも「もし本当になぜ好きなのかが分かってしまったら、逆にゲームをもう遊ばなくなるのではないか?」というある種、怖い想像をしたことがあるのではないか。自分がまだよく分かっていないからこそ、これからもまだ遊べると安堵したことはないか。

少なくとも僕は人と遊ぶことを大切にしていきたいと思い、そして、ついつい新しいゲームを求めてしまうのは「分からなくなりたい」がため、という気がしている。それがまさしく「交換不可能性への畏敬」の現れの一つであり、麻痺することへの憧れとしてあるのだろうと思っている。

2013年8月10日 (土)

【ボードゲームレビュー】ドブル ★★☆☆

Dobble_01

評価:★★☆☆[2/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:2~8人

プレイ時間:20分


子供にやらせたいゲームの代表格。

簡単なゲームの流れ

  • ①丸いカードには様々なモノがいくつも描かれている。
  • ②自転車とかエンピツとかロウソクとか、色々。
  • ③場に出したカードと自分に配られたカード、両者に共通したモノが必ず1つは描かれている。
  • ④共通したモノを見つけたら、そのモノの名前を叫んで早い者勝ちで場のカードを獲得。
  • ⑤これを繰り返し、最もカードを獲得した人が勝ち。(なおマニュアルにはこうした遊び方を含めて5種類のゲームルールが書かれている)

Dobble_02



ゲームの総評


「これっ!!この変なお化けみたいなの!これ!これっ!」

共通した絵を探すゲーム、ドブル。ルールは至っては分かりやすい。色んな絵が描かれている2枚のカードの中から、同じ絵を探す。

素晴らしいと思うのは、その熱中度だ。好き嫌いにかかわらず、このゲームに一旦参加してしまうと、絵を探す作業に没頭しないではいられない。おもわず必死になれるのだから、凄いゲームだ。

ただ、基本的にやることが1つであるため、単調には感じてしまう。その点このゲームにちょっと似ている「おばけキャッチ」はモノを掴むが行為が、とてもいいアクセントになっていたと思う。

でも、ウォーミングアップとして、まさしくその場を温めるのに便利なゲームだと思う。

ちなみに、1枚のドブルのカードには、8つの絵が描かれている。カードは全部で55枚。任意の2枚のカードを取り出した時、必ず1つの絵だけが一致するドブル。これ、最低何種類のイラストを用意しておけばいいのだろうか?僕はこのゲームをやっている途中にこれが気になって、気になってしょうがなかった。このドブル算。だれか計算している人いないのかな。

あー、すごく気になる。


評価★★☆☆とした理由……おばけキャッチ同様、見極めたり探すアクションゲームが苦手。それでもプレイを始めると思わず熱中してしまう自分が悔しい。

2013年8月 3日 (土)

【ボードゲームレビュー】ロストレガシー ★★☆☆

Lost_legacy_01

評価:★★☆☆[2/4](2、3、4人プレイの評価です)

プレイ人数:2~4人

プレイ時間:10分


ラブレターのメカニクスからの正統進化。

簡単なゲームの流れ

  • ①16枚のカードを各自1枚配り、残りは山札とする。山札から1枚めくり、裏向きのまま山札の隣に置く。このカードが「遺跡」となる。
  • ②各プレイヤーは順番に山札から1枚カードを取り、手元のカードとどちらのカードを捨て札とするか選択する。
  • ③捨て札にしたカードに書かれた効果が発動する。(任意の相手のカードを見れる、などの効果がある)
  • ④山札がなくなったら探索フェーズ。カードの数字の低い人から、誰が「遺産カード」を持っているか予想する。
  • ⑤遺跡を含め、どこに「遺産カード」があるか当てた人が勝ち。

Lost_legacy_02



ゲームの総評


あの名作ラブレターのメカニクスを受け継いだ作品。ラブレターは、大好きな作品だが、意外にボードゲームやカードゲームに馴染みのない人にはウケが良くなかったりする。「もっと感動しろよ!」と僕としては身勝手に思うのだが、あまりにもさっぱり終わったり、特に脱落させられてしまうと「ぽか~ん」としてしまうのだろう。まあ、その気持ちも分からないではない。

ロストレガシーには、ラブレターにはない「探索」という要素が入っている。16枚のカードの中に1枚だけ特殊な「遺産カード」がある。それがどこにあるかを全員で探る。そのカードがどこにあるか当てた人が勝者だ。みんなの意識が1つの物に集中する感じはいい。ゲームへの参加意識を高めてくれる。

ラブレターよりも脱落する可能性が低くなっている点と、意識的に脱落を回避する行動がとりやすくなっている点もいい。短い時間で終わるという圧倒的な長所をちゃんとラブレターから引き継いでいるところも好ましい。

できれば3回。カードセットを変えてプレイすると、なかなか満足できるのではないかと思う。また、ロストレガシーは、ラブレター以上に4人プレイが推奨されるゲームである気がした。2人でプレイすると物足りないのはもちろんだが、3人で遊ぶよりも、やはり4人でやった方が良いと感じた。

ゲームのルールを聞いて、直感的に「探索フェーズというシステムが実に見事だ」と思ったのだが、実際にやってみると意外にあっさり終わってしまうことが多い。ただ、「探索」の推理合戦がすごく良いドラマになる時もあるから、是非繰り返しプレイしたいところだ。


評価★★☆☆とした理由……個人的にはラブレターのことをリスペクトし過ぎて、それほど期待してなかったのだが、ロストレガシーは面白いゲームだ。ラブレターで物足りなかった「ラストの盛り上がり」がちゃんとあるところがいい。探索フェーズの推理合戦をみんなでワイワイできると、グンと面白さが上がる。ただ、ラブレターを知っていると、どうしてもインパクトは弱い。

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