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2013年8月12日 (月)

【コラム】なぜソーシャルゲームを嫌悪するのか?そしてなぜボードゲームは人とプレイするのか?

■なぜソーシャルゲームを毛嫌いするのか?

唐突だが、ソーシャルゲームを食わず嫌いしている人が結構な数いる。かくいう僕もその一人だ。たいしてソーシャルゲームをプレイしてもいないくせに嫌っている。なぜやりもせず毛嫌いするのか?

その理由について社会学者の大澤真幸氏のこの書評を読んで思ったことがあるので、書いてみたい。そしてそれはなぜ僕がボードゲームを人とプレイするのかという理由とも関連していると思ったので、そのことも併せて書きたい。

この大澤氏の長い書評は、掲載当時にかなり話題になったので読まれた人もいると思う。あのNHKの番組で有名になったハーバードのサンデル教授の本の書評だ。さっそくだが、僕自身が今回注目したのは書評の中の以下の文章だ。

  • "行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。"

この具体的な例として赤ん坊を養子にする話が書かれている。

  • "ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。"

赤ん坊を養子とする際、商品のように値段を付けてしまうと、赤ん坊は途端に低級な「道具」に堕してしまう。なぜ商品のように扱うことが低級なこと、下劣なことに見えるのか。それを大澤氏は次のように説く。

  • "金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染する"

手段は目的に交換するための媒介物だ。お金は汎用的な「手段」である。だからこそ、お金のような「手段」ではなく、「それ自体目的になってい」ることの方がより「高級」に見える。

これは別にむずかしい話ではない。この書評にも例として書かれているが、他人にプレゼントを渡すとき、現金ではなく物をプレゼントする方が上品とされている理由と同じだ。現金の方が遥かに有用性が高いにも関わらず、むしろその有用性こそが「現金は下品だ」と思わせている理由でもある。

何か別のものに置き換え可能であること(=交換可能)は、そうでないもの(=交換不可能)に比べてその価値が低くなる。ユニークであることの方が、崇高に(高級に)感じられるのだ。理由なく「ただ端的に正しい」ことの方が、より根源的であるように感じる。例えば、「他人に嫌われないために」嘘をつかない人よりも、単に「嘘をつくことは嫌いだから」嘘をつかない人の方が高潔であるように思ってしまう。それは嘘をつかないことが単なる手段だと思うとイヤな気分になるからだ。行動が全く同じでも、そう感じてしまう。

実はソーシャルゲームに対する嫌悪感は、こうした交換可能なものへの嫌悪感ではないかと思っている。そしてその背後には必ず「交換不可能性への畏敬」がある。

単にゲームへの対価として課金を考えると、Free-to-playのアイテム課金の方がずっと良心的なはずだ。100円を払えば100円を払った分の利益を享受できる。いきなり大金である6800円を払って、全然楽しめない可能性を内包している商売と比べて、どちらが消費者にとってリスクが高いかは言うまでもない。

しかしそれでも、僕たちは、プレイ前に6800円を払うことの方が崇高だと考えてしまう。それはなぜなのか。それは、アイテム課金という仕組みが「交換可能な体験である」ことを常に僕に意識させるからだ。「今、このゲームを楽しんだ」というその経験が、今その場で払った100円、1000円に相当することを、アイテム課金の仕組みでは頻繁かつ強く意識させられる。その頻度と結びつきの強さが問題なのだ。私の体験がコマ切れにされて、その1つ1つが何円に相当するかを意識させられることが怖い。僕の食わず嫌いはこの「怯え」から来ている。

だから、僕のようなソーシャルゲームを食わず嫌いしている人間でも、すべての課金システムを嫌っているわけではない。例えば、月額課金のようなシステムに対してはかなり寛容になれる。課金に対する嫌悪感は、グラデーションのようになっている。0か1かで嫌っているわけではない。月額課金であれば、その「意識させられること」が月に1回で済むし、その「体験」と「金額」の結びつきは比較的ゆるやかだからだ。1カ月の中でどのように楽しむかには、大きな振り幅がある。

しかしアイテム課金では、その意識の回帰が頻繁にやってくる可能性を否定できない。僕の楽しい30分や60分が何円なのか。精度高く定量化されればされるほどに、その楽しみは目的ではなく、手段としての交換可能性に開かれていく。つまり「ホントはその遊びではなくてもいい」可能性に気付き、ゲームをすることが何か別の目的のための手段に堕することを怯えているのだ。

思い返せば、好きなゲームに対して「6800円に相応の楽しさだった」と評価することはほとんどない。逆に、そのゲームが嫌いであればあるほど、金額で評価することに抵抗がなくなる。「このゲームは1000円程度だった」とか「2000円でも高い」とか。しかし愛のあるゲームに対して「1万円の価値があった」とは微妙に言いづらい。せめて「1万円で買っても後悔しない」という言い方になる。そこには、どうしても定量化できない余地を残しておきたいという思想、まさしく「交換不可能性への畏敬」の念がある。

だから、「アイテム課金で6800円分の課金をしたら、パッケージゲームの6800円以上の楽しみが享受できるよ」とどれだけ説得しても、無駄である。正しいか否かに関係なく、決してその言葉はソーシャルゲームを食わず嫌いしている人には通じない。なぜなら、その交換可能性こそを嫌悪しているからだ。射幸心によって煽られ、金銭感覚などの計算能力が麻痺することを恐れているのではなく、むしろ逆に何らかの目的のための手段として冷静にゲームを扱ってしまうことを恐れているのだ。



■なぜボードゲームは人とプレイするのか?

そんなソーシャルゲームの隆盛というデジタルゲームの大きな転換期にあって、僕はアナログなボードゲームと出会った。ボードゲームを最初購入する時の正直な感想を言えば、「結構高いな!」だった。それでも思い切ってカルカソンヌを買って箱を開けてみて更に驚愕した。「なんという上げ底(?)だ!」と。

僕はテレビゲームを愛していると思っていたが、それでも定量的で交換可能な価値感に毒されていた。多くのゲームで、プレイ時間の長短(ボリューム)を強く意識していた。そのことに改めて気が付いた。「単にプレイ時間が長ければ良作というわけではない」と言いながら、何十時間も楽しんだゲームの方が短時間しか遊べなかったゲームより価値があると素朴に思っていた。ある時を境にファミ通がクリアまでの想定プレイ時間をクロスレビューに載せるようになった。僕はそのことにそこはかとない嫌悪感を抱きつつ、しかしその情報はしっかり読んで吸収していた。矛盾したその姿勢。

そんな悪い癖を引きずるように、僕はボードゲームの値段をプレイ回数で割ってみたことがある。しかし、そんな行為の虚しさを直ちに思い知るのもボードゲームの良いところだ。「1プレイあたり1000円か。まだ元を取ってないな」と頭で計算できても、単純には思い切れないのがボードゲームなのだ。なぜだろうか?

僕はその最も大きな理由が「人と顔を突き合わせてプレイする」という点にあるだろうと思う。先程の赤ん坊を養子にする話と同じで、僕たちは人を金に換算することに嫌悪感を持つ。人を金で買うことに、倫理的な嫌悪感を抱く。これは値段を高く評価すればいいとかという話ではない。目の前に息をして座っている人と楽しく遊んだ時間をお金に換算することのやましさ。楽しさの大小はそれぞれだろうが「あのプレイは1000円分に相当するな」とか「あのプレイは200円程度の価値だった」とは、意外に上手く考えることができない。「目の前に人間がいることの迫力」をうまく計算できない。8800円のボードゲームを、5回プレイしようが、50回プレイしようが、交換不可能な体験に昇華しやすいからこそ、その崇高さを維持することができる。

仮に、ボードゲームにスマホ用の対戦AIアプリが同梱されるスタイルが一般化したとしよう。そうした「機械相手にボードゲームを楽しむ仕組み」が発展したとしたら、おそらくデジタルゲームのように金額をプレイ時間で割って、高いコストパフォーマンスを求める人が確実に増えるだろう。そのAIが人間と区別がつかないほど精巧であっても、それは関係ない。そういう機能性の問題ではないからだ。AIであれば、値付けすることへの遠慮はなくなり、いつでも、より良いAIへと全く躊躇なく変更(交換)できる。

かけがいのない体験としてのゲームプレイ、それ自体が目的であるという「ゲームプレイ」。それ自体が目的でなければ、「ゲームプレイ」は手段になり、別の行為に交換可能になってしまう。「それ」をプレイしなければならない理由も(本当は)霧散してしまう。そのために僕たちは「○○のため」という理由に対して、どこか無自覚でなければならない。

僕たちがボードゲームでなければならないと思っているその交換不可能性は何なのか?その理由を問う行為は、皮肉にもその交換不可能性を相対化して交換可能なものに変化させてしまいかねない。たとえ今現在ボードゲームを「実際に」楽しんでいたとしても、いつの日かそれが他の娯楽にとって代わってしまうかもしれないという「怯え」は、ソーシャルゲームの交換可能性に対する「怯え」と根を同じにしている。

しかし、こうした「怯え」を巧妙に回避するための仕組みがまさしく「人とプレイする」という行為であり、その「目の前に人間がいることの迫力」による計算能力の麻痺なのだ。人とプレイするというその1点を維持し続ける限り、僕たちはボードゲームの交換不可能性をかなりの強度で確信することができるだろうし、その仕組みによりボードゲームへの「愛」を救われることもあるだろう。

人とボードゲームをプレイすること(語ることも含め)は、そのゲームを味わうための手段である。しかし一方でその手段こそがボードゲームの崇高さを支えていたりもする。そのため、僕は時に「人と遊ぶためにボードゲームをプレイしているのか」それとも「ボードゲームを遊ぶために人とプレイしているのか」そのどちらが本質であるのか分からなくなることがある。

しかし、このよく分からないという状態こそ、「ゲームプレイ自体」が目的であることに(まだ)近い状態なのではないかと思う。何か明確な目的Xのためにボードゲームをプレイし始めた瞬間に、その神聖さは音を立てて崩れてしまうだろう。

理屈っぽく愛を語る人よりも、愛する理由を知らない人の方が美しく見えるのは、そういうことだ。子供が母親を愛するのは、決して育ててくれるからではないし、そう思うからこそ子供の無邪気な愛情は崇高なのだ(だからこそ実際に子供がいかに狡猾であるかを知る時、一瞬僕らは戸惑う)。

もちろん、世の中には(そしてボードゲーマーの多くは)なぜ「私がこれを好きなのか」についてついつい理屈っぽく考えてしまう人も多いだろう。しかしそんな人でも「もし本当になぜ好きなのかが分かってしまったら、逆にゲームをもう遊ばなくなるのではないか?」というある種、怖い想像をしたことがあるのではないか。自分がまだよく分かっていないからこそ、これからもまだ遊べると安堵したことはないか。

少なくとも僕は人と遊ぶことを大切にしていきたいと思い、そして、ついつい新しいゲームを求めてしまうのは「分からなくなりたい」がため、という気がしている。それがまさしく「交換不可能性への畏敬」の現れの一つであり、麻痺することへの憧れとしてあるのだろうと思っている。

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コメント

1つだけ許容しがたいのは誰かと一緒にいる時に気付くとぽちぽちとモバイル端末をいじって
ソーシャルゲーを遊んでいる人が目立つ事です
大勢が集まった場所ならまだしも2人きりの時などでも遊んでいる人が多いのはげんなりします
その場所がつまらない訳ではなく、定期的に遊ばないと置いていかれるような感覚になる
ソーシャルゲーのシステム自体の問題なのでしょうが
本人には悪意はなく中毒のような状態になっているだけでしょうから
人といる時ぐらいやめようよと諭すのもなかなか躊躇われます

つまらんこと考えるな

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