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2013年9月

2013年9月28日 (土)

【コラム】放課後さいころ倶楽部に見る「ゲームからの逸脱と回帰」

書いてる本人は大真面目なんですが、記事の内容をそれほど真剣に捉えないでいただければ幸いです。

2013年9月。ボードゲームをテーマにしたある漫画が発売された。ボドゲクラスタのツイッターはその話題で一色になった。放課後さいころ倶楽部だ。ゲッサンを立ち読みした時は女の子がキャッキャする漫画というイメージだったので、ノットフォーミーと思いスルーしていたのだが、単行本の評判がとても良いので、Amazonで注文して読んだ。読んでみてびっくりして、反省した。面白かった。

本記事では、この単行本に納められている1つのエピソードを主題的に取り上げたいと思う。それは第4話、第5話の2回に渡って描かれたエピソードだ。放課後さいころ倶楽部では、各エピソードで1つのアナログゲームが扱われる。このエピソードは名作ごきぶりポーカーを扱っている。僕はこのエピソードがこの一巻の中でもっとも優れたエピソードだと思っている。というのも、この回は単なるほんわかラブコメディなのではなくて、ボードゲームの持つ秘められた魅力を鋭く抉り出していると思うからだ。なぜ素晴らしいと思うのかその理由を以下に長々と述べてみたい。

ちなみにこの記事はネタバレ満載なので、その点はご留意ください。


■放課後さいころ倶楽部のあらまし


読んだことがない人のために、簡単に放課後さいころ倶楽部のあらましを紹介する。主な登場人物は次の3人だ。まず、主人公の女子高生・武笠美姫(ミキ)。彼女は引っ込み思案で、内気な少女だ。クラスのみんなともなんだかなじめず気づくと一人でいる、そんなタイプの子だ。そんなミキのクラスに一人の転校生がやってくる。高屋敷綾(アヤ)だ。アヤは、とても破天荒で自由な性格。大人しいミキを翻弄するが、次第にアヤの屈託のなさに感化されてミキは心を開き、アヤと仲良くなっていく。そして、アヤとミキのクラスにいる委員長である大野翠(ミドリ)。彼女はカタブツで真面目。校則にもうるさい成績優秀な優等生だ。そんな3人を中心に物語は進んでいく。

ある日の放課後、アヤとミキがカフェでおしゃべりをしている時に、優等生のミドリが繁華街へ歩いていくのを目撃する。そしてミドリはそのまま怪しい雑居ビルに入っていく。不審に思った二人が尾けていった先、雑居ビルにあったのはなんとアナログゲームショップだった。ミドリはそこで店員としてバイトしていたのだ。生真面目な委員長ミドリの裏の顔を知った二人は、そのことをきっかけにボードゲームの世界にはまっていく。

今回取り上げるエピソードはそんな3人が放課後にカードゲームを遊ぼう、というところから話は始まる。そのカードゲームがごきぶりポーカーだ。

このエピソードでは上記のメイン3人とは別にもう一人のキャラクターが登場する。田上翔太という委員長ミドリの幼馴染だ。彼は、転校生のアヤに一目ぼれをしてしまい、アヤと仲良くなりたくて、そのごきぶりポーカーに参戦することになる。

ごきぶりポーカーは心理戦のゲームだ。嘘をみやぶるゲームである。しかし転校生アヤはものすごく嘘をつくのが下手だ。そのため、翔太は好きな相手であるアヤの嘘を簡単に見破ってしまう。

しかし翔太としてはそれは不本意なのだ。もちろんそれは、好きなアヤを自分がやっつけてしまうと、印象が悪くなって嫌われてしまうかもしれないと悩むからだ。これは分かりやすい。誰も好きな相手をコテンパンにやっつけたいとは思わない。彼は一人その孤独な心理戦を戦うことになる……。

以上がこのエピソードの要旨だ。さて、次からが僕の考察(妄想)だ。


■ゲームを楽しむための条件「逸脱」


先ほど挙げた不本意とは別に、実は翔太の不本意さにはもう一つの側面があると僕は考える。それは別に勝っても嬉しくないということだ。なぜなら、ごきぶりポーカーは嘘を見破ることを楽しむゲームだからである。しかし、アヤがあまりにも分かりやすい嘘をつくため、翔太は嘘を見破る権利(=楽しむ権利)を剥奪されている。これがもう一つの翔太の不本意の側面だ。

この見破る権利を剥奪するという事態は、何も分かりやすい嘘をつくアヤのようなケースでのみ発生するわけではない。例えば完全にランダムな手を出すケースでも発生する。

ごきぶりポーカーというゲームが面白いのは、人間がゲームの仕組みの一部になるからだ。仕組みと言っても人間は決してランダマイザーとしてゲームに組み込まれているわけではない。人間はサイコロの目とは違う。カードを見ずに「これはごきぶりです!」とランダムに宣言するような遊び方をしてしまうと、そのゲームを楽しむ権利を奪ってしまう。

なぜ楽しむ権利を奪ってしまうのか、それは端的に言うとゲームのルールを越えることができなくなるからだ。普段つけない嘘をつく背徳感を感じ、その背徳感を見破る面白さを楽しむ。それはルールが直接語らないゲームの仕組みであり、ゲームのルールを逸脱した場所であるからだ。このルールが直接語らない場所(=ゲームから逸脱した場所)にこそ面白さがある。「たとえゲームとして成立していても面白いとは限らない」のは、このルールが直接語る場所から逸脱できないからなのだ。

もう少し詳しく考えよう。「嘘をつく」ことをルールは厳密に規定できない。そう聞いても、そんなことはないと思うかもしれない。別ゲームだが、たとえばいかさまごきぶりで、蛾のカードを出す時に絶対に嘘をつかなくてはいけないというルールがある。ルールは「嘘をつくこと」を規定できているじゃないか、そう思うかもしれない。

しかし、実はこれは「嘘をつくこと」がルールなのではない。「カードの内容と違うことを宣言すること」がルールなのだ。「嘘をつく」ということは、単に「事実と違うことを言う」ことではない。そのことは「言い間違え」と「嘘」とでは何が違うのか、を考えてみると分かりやすい。この違いを人間は直感で理解できる。しかしルールブックはその違いを厳密に規定することができない。それを判断し遊ぶことができるのは人間だけだ。人間だけがゲームのルールを逸脱し、逸脱したところ(言い間違えの差異)に面白さを感じる。

僕はこのことがブラフゲームにだけ関わることではないと考えている。放課後さいころ倶楽部のエピソードが秀逸であるのは、それを明らかにしている点にある。つまりあらゆるボードゲーム、アナログゲームの面白さの1つとしてゲームからの逸脱があるのだ。

たとえば、このゲームがごきぶりポーカーでなく、カタンだったとしよう。翔太の隣にアヤが座っていたとして、アヤが無防備に持つ資源カードが(角度が悪いのか)丸見えになっている。翔太は、別に見たくもないのに、アヤの持っているカードが見えてしまう。翔太の悩みは、ここでも同じだろう。アヤの持ち札が分かってしまうからこそ、どのように交渉すればいいか、どこに盗賊を置いたらいいかは他のプレイヤーよりも正確に判断できてしまう。不幸はそこにある。

勝ちたいけど、勝てることが決まった世界では、誰も勝ちたくはない。勝つことを楽しむためには「勝てるかどうか分からない」ことが条件になる。勝てることが予め決まっているゲームはそれ以上逸脱できない。それは単なる手続きになってしまう。

だから、ごきぶりポーカーでも翔太は楽しめない。ゲームを楽しめてはいない。ゲームはアヤの関心を買うための手続きになってしまう。しかし、このエピソードは最後に大逆転を用意する。なんと最後の最後で、翔太の意図が完全に外れてしまうのだ。圧倒的に有利だったはずの翔太。彼はまったく予想だにしない「敗北感」を味わうことになる。それは単なる負けではなく、初めてゲームのルールを超えて「逸脱」した先を考えたようとした結果、苦汁を味わうこととなった。とても皮肉なラストだった(どういうことが起きたのかは未読の方はぜひ実際に読んでほしい)。

しかし、これがゲームだ。こうした「裏目」が出ることがゲームの面白みなのだ。ゲーム終了時にはがっくりとした翔太が描かれる。しかし翔太は苦汁を飲むことによって、ようやく楽しむ権利を取り戻したのだ。それまでの翔太は自分が把握している世界が完全なものだと思い込んでいた。しかし、本当はもっと世界は広かったのだ。狭く閉じた世界を更に逸脱するもっと広い世界(ルール)があることを身を持って知ったのだ。

この世界が広がる感じ。今まで見えていた世界が刷新される快感が多くのボードゲームファンを魅了してやまない快感ではないか。僕たちはそれを「より深くゲームを理解した」などと表現する。この世界のルールが変わる瞬間の面白さ、当たり前の世界が一瞬にして姿を変える面白さ。このエピソードは、ラブコメを絡ませることによって、ボードゲームで日常的に発生する世界のルールが変わる瞬間を表現している。翔太の落胆は、ボードゲーマーの「世界のルールが変わる快感」のネガポジ反転した姿なのだ。

しかしだ。ここで疑問が生じる。「逸脱すれば面白いのか?」という疑問だ。ゲームを逸脱すればいいのであれば、それはある意味単純だ。無茶をすればいい。破天荒なことをすればいい。そして、実際にそれは刹那的に確かに楽しい。むちゃくちゃな一手を打つとか、明らかに不合理な手を打ってみるとか。「月下の棋士」の初手9四歩みたいな、そういうことをして場が盛り上がるのは、実はこのルールが刷新される面白さと通低しているところがある。パーティゲームなどで誰かが無茶をやって「あー、そういう楽しみ方もあるかな」と思うのは大抵これだ。しかし、こういう無謀さ逸脱とは少し違うものとして語りたい。では、一体何が違うのか。

なんと、放課後さいころ倶楽部の第5話が真に凄いのは、この疑問にも答えている点にある。それがどこにあるかを次に見てみたい。


■ゲームを成立させるための条件「フリ」


まずそもそも、ここでのごきぶりポーカーは破綻するはずだった。なぜならアヤは嘘が完全にばれる人であるからだ。ごきぶりポーカーをやったことがある人はよく分かるが、このゲームは一人負けを決めるゲームである。だから、嘘をついていることが100%分かるような人が一人でもいるとゲームは破綻する。もはやカードを差し出すだけの作業になってしまう。

では、なぜゲームが成立しているのか。それは翔太がアヤのことが好きだからだ。嫌われたくないからである。だから翔太はゲームを成立させざるをえない。アヤの下手な嘘を指摘して「お前の嘘、完璧に分かるよ」と言って、ゲームを破綻させることはできない。そして破綻させないだけでなく、自分も負けたくないため、翔太は自分なりの心理戦というゲームに参加せざるをえない。ここで、破綻するはずだったゲームが一転してすごく真っ当に進行しているゲームとして成立することになる。

翔太は自分が負けず、かつアヤを負かさないために、「パスをしてやり過ごす」という作戦を立てる。そしてゲームは「外見上」とても平常運転しているように見える。ここで重要なのは翔太はアヤの嘘を見破れるというチート行為を封印している点だ(文字通りチートではないのだが)。翔太はアヤの嘘を見抜けないフリをして、アヤの嘘を見抜けなかった世界でもあり得るストーリーを再構築しようとしている。

この分からないフリをするというのがとても凄い。これが描きだされただけでも、この漫画はボードゲーム漫画として凄い価値がある。なぜなら実はこのフリというのがボードゲームの日常で凄くよく見られる現象の1つだからだ。

たとえば、あなたがカルカソンヌをインスト(説明)するとしよう。インストする相手は全員ボードゲームの初心者でカルカソンヌも初体験だ。あなたは単にインストするだけではない。できればカルカソンヌを、そしてボードゲームを好きになってほしいと願っている。ルールを一通り説明し終わって、ゲームが開始する。あなたは経験者であるから強い。当然破格に他のプレイヤーよりも強い。おそらく最善手と思われる手がいくつか頭に思い浮かぶ。「あのタイルはもう出切っているから、ここに道を置けばきっとこの都市は完成しないな」とあなたは冷徹に計算する。しかしだ。そういう最善手をあなたは打たない。そして次善の手、次々善の手を打つ。初心者を殺してしまわないために、あなたは最善手が分からないフリをする……。

こうした経験はないだろうか。おそらく長くボードゲームをプレイしていれば、似たような経験をするのではないかと思う。これは全く翔太のやっていることと違わない。翔太のやっていることは決して特殊な行為ではない。翔太の姿はボードゲーマーの姿でもあるのだ。

こうしたフリをすることで重要なのは、本当のことを言わないということだ。それは翔太がアヤのバレバレの嘘を明言しないことと同じだ。彼は取り繕う。ゲームを取り繕い、真っ当に進行しているように見せかける。絶対に言わないのだ、本当は知っていることを。さも知らないことが当然であるように成立させる。そうした世界を作る。


■次もゲームを楽しむための「回帰」


しかしこうした行為こそが、先ほど挙げたゲームからの無謀な逸脱への抑止力となる。

なぜ無謀への抑止力となるのか。その理由を語るため、もう一人のキャラクターに焦点を当てよう。実は翔太とは別に、もう一人フリをしているキャラクターがいるのだ。それは委員長キャラであり、最もボードゲームに精通しているミドリである。彼女は(別エピソードだが)冷静にモノローグでこう語る。「他人の心なんてそう簡単に読めるものじゃないし…」。これも本当のことであり、疑いようのない真理だ。しかし彼女はそれを表立って語らない。なぜなら、そう語ることで、ごきぶりポーカーというゲーム、ひいてはブラフゲームは成立しなくなるかもしれないからだ。彼女の真理は「分からないことをお互いに当てあって何の意味があるの?」という虚無に陥る危険な真理なのだ。だから彼女はゲームを成立させるギリギリの論理だけを展開する。たとえば「初心者が『カメムシ』なんて…とっさに出る名前じゃないわ。嘘をつく時はゴキブリとかハエとか覚えやすい種類を言うものよ」と。

彼女はこれがある程度の妥当性はあるが、あらゆる場面で通用する真理だとは捉えていない。本当の真理はモノローグでしか語らない。逆に言えば、本当のことを知らない「フリ」をする。それが真理ではないと分かっているのに、あえて100%の真実でないことを口にする。なぜ妥当な仮説は口にするけれど、真理は口にしないのか。それはゲームから逸脱しすぎてしまう危険性があるからだ。逸脱して虚無に陥ることなく、ゲームの世界に戻ってこれることだけをミドリは語っているのだ。

ゲームの世界が一瞬にして変わる逸脱の快感。しかし、それはルールの中に再び回帰することで、遊ぶことが継続可能になる。単なる無謀さが一時的には楽しくても、時が経つと空しくなってしまうのはこの点にある。逸脱によってゲーム世界が変わる瞬間が色褪せないとしたら、ちゃんとゲームの世界に帰ってこれるからだ。この相互反転するダイナミズム、ちゃんと帰ってこれることが必要なのだ。経験者がルールを深く理解するたびに、心の中のルールブックを厚くしていく。厚くなったルールブックという結果が面白いのではない。その過程を繰り返すことができるダイナミズムこそが面白いのだ。チート(インチキ)が虚しいのは、帰ってくることも、それ以上逸脱することもできない虚無に陥いるからだ。

翔太はフリをしていた。彼のフリによってゲームは成立していた。と、同時にミドリもフリをしている。彼女は人間の心なんて分かるわけがないと知っている。しかし、そのことを知らないフリをしてゲームに参加し、ゲームを成立させる。そして翔太の嘘をもっともらしい理屈をつけて見破る。しかし彼女は知っている。それは完璧な理屈ではないことを。ミドリと翔太のフリに違いがあるとしたら、それは次のことだ。フリの背後にある真理がゲームに回帰できる可能性を保持しているか否か。この点である。だからミドリは先ほどの真理のすぐ後にこうも語るのだ「相手が人である以上このゲームに必勝法は存在しない」と。(※)

翔太の心の中のごきぶりポーカーのルールブック(真理)は更新をやめていた。翔太はゴールにたどり着いていた。それ以上考える必要はないところにいた。なぜならアヤの嘘は明白だからだ。だから本当であれば、翔太はゲームの楽しさも深さも知ることがなく、そのゲームを単純に終わらせていただけかもしれない。

しかし、ここで奇跡が起きる。その奇跡の大逆転によって彼は「幸運にも」挫折することができた。その奇跡によって彼はまた心のルールブックを更新することができた。天使のように正直者のアヤでも、その真意が100%見抜けるわけではない。そんな新しいルールを得ることができた。そのことで再びゲームが成立する世界に帰ってきたのだ。だから彼は幸運なのだ。

一方で、仮にアヤの嘘がバレバレであることを翔太が口に出してしまっていたらどうだろう。その時点でゲームは破綻し、こうして翔太のルールブック(世界)が更新されることもなかっただろう。翔太のフリ逸脱は相補関係にある。彼はフリを続けたおかげで、この逸脱して回帰する地点にまで到達できた。

僕たちの経験でも同じではないだろうか。ついさっきインストしたはずの初心者が思いもよらない巧手を打ち、思わず感嘆してしまう。あなたがもし感嘆したのなら、いわずもがな初心者は自らの一手に感動することもあるだろう。こういうことがあるからフリは重要なのだ。初心者に本当のことについて講釈を垂れることは虚しく、むしろフリによってゲームを成立させることの方が遥かに意義深い。僕たちは分かっていないフリをする。しかしそれはフリではなく本当に分かっていないのかもしれない。フリによってその可能性を残しておくことができる。残しておく必要がある。フリのおかげで、今の世界を更新できるのかもしれない、まさしく翔太と同じように。僕たちの分かっていないフリは別に偉くともなんともない。挫折する前の翔太のようにゲームを舐めきってしまわないための、むしろ無知の知という保険なのだ。

破綻するはずのゲームがなぜ成立し、そしてなぜ最後には翔太までが楽しむ(=悔しがる)ゲームになったのか。この逸脱と回帰のダイナミズム。その大きな流れが一本の物語としてこのエピソードに集約されている。このエピソードがずば抜けて凄い話であると僕が考える根拠である。

ところで、以上のように長々と語ってきたような拡大解釈がなぜ可能なのだろうか。それは、このエピソードがゲームと無関係な恋愛という要素をゲームプレイに直接盛り込んでいるからだ。僕たちがゲームを楽しむとき、それはゲームだけでゲームをしているのではない。ゲームだけでゲームの楽しさを語ることは本質的に不可能であり、ゲームを超えたイマジネーションやバックグラウンドがどうしても必要になるのではないか。そんなことを思わずにはいられない。


補記(※)……ちなみにもう一人フリをしているキャラクターがいる。別のエピソードだが、人狼回での主人公・ミキだ。彼女もまた分からないフリをしていた。しかしそのことによってゲームは成立し、劇的なドラマが生まれた。分からないフリは決して傲慢を意味しないのだ。

2013年9月25日 (水)

【ボードゲームレビュー】アヴェカエサル ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](6人プレイの評価です)

プレイ人数:2~6人

プレイ時間:30分


妨害の楽しさ。疾走の気持ちよさ。

簡単なゲームの流れ

  • ①数字が書かれた手札に持ち、各自レーススタート。
  • ②自分の手番では、1枚、手札を出す。出したカードの数字分だけチャリオット(騎馬戦車)を動かす。
  • ③自分の前方に他プレイヤーのチャリオットがある場合は、進むことができない。進めない場合はパスをする。
  • ④闘技場のトラックを3周する前に、スタート地点近くにある皇帝への謁見エリアを通って皇帝(カエサル)に拝謁する必要がある。
  • ⑤一番早くトラックを3周した人が勝ち。

Ave_caesar_02


ゲームの総評


レースゲームだ。チャリオット(騎馬戦車)を操作して、皇帝の見守る中、闘技場のトラックを3周する。凄くシンプル。3周する間に必ず1回は皇帝のいる謁見エリアに立ち寄らなくてはならない。謁見エリアは少し遠回りになるので、どのタイミングで謁見エリアにピットインするかを考えることになる。

とにかくテーマの再現度の高さに驚いた。他プレイヤーの進行ルートを防いだり、少し遠回りでも外周から一気に抜き去ろうと画策したり。映画ベンハーを観たことがある人もない人も、このゲームは古代ローマの騎馬戦車戦に対して持つイメージを決して壊さない。

このゲームは実に気持ちのいい奴だ。遊んでいて全然シコリのようなものが残らない。30分~40分程度で終わるのもいい。人数は6人が良いと聞いたが、確かにそうかもしれない。このゲームを楽しむため、唯一そこだけが越えなければいけないハードルかと思う。(ただ、3~4人用のトラックもボード裏面に用意されている。こちらは未プレイ)

こういう品のいいゲームというのは、なぜか欲しくなる。手元に持っておきたくなる。決して背伸びをしないから、きっといつプレイしても同じように僕を楽しませてくれるだろう。見えている様が、そのまま、そのゲームの実力だ。こういうゲームがあるから、ボードゲームって好きなんだよなあと思う。


評価★★☆☆とした理由……面白い。爆発的な面白さはないけれど、本当に気持ちのいい30分を過ごせる。良いゲームだ。

2013年9月18日 (水)

【コラム】ボードゲームにおける長考問題は解決されるべきではない

長考にまつわる問題は、個人的に非常に明確な前提がある問題だと思っている。長考しないでいいかげんな1手を打つことで、ゲームはそのシステムから破壊される。これが大前提だと思う。誤解されてもいいので敢えて言うが、「長考してはいけない」というのは論理的におかしい。長考しないで、テキトーな1手を打つ奴は「絶対的に」ダメなのだ。ここは「人それぞれだよね」で済む相対的な問題ではない。適切な1手を打とうと思ったら、コンピュータや圧倒的な天才でない限り人間は長考するのだ。それを「長考しないで相手のことを慮って、早く一手打ちましょう」というのは理念(ボードゲームの論理)として間違っている。はっきり言ってしまえばテロだ。テロをどの程度認めるべきかというテロの程度を問う議論であれば成立する。しかし、この価値感を逆転させて、テロが正義であるとしてしまうと、それこそ黒ひげ危機一髪をやっていればよく、ボードゲームをプレイする必要は無くなってしまう。

…………。

さて、実を言うと、これまで様々な長考問題の話を聞いたり、読んだりしていて、以上のように考えていた。これは本心だ。しかし同時に、こう考えることで「とても嫌な気分」にもなっていた。「まあ、そりゃあそうかもしれないけど、ちょっと救いがないな。なんと言っても長考は嫌でしょうよ。楽しもうよ」と。実感としてもやっぱり長考すると申し訳ない気分になるし、逆に「長考しちゃってごめんなさい!」みたいな態度を見ると「ああ、この人いいひとだな」と思ってしまう。本当のところ「楽しくできれば、まあいいや!」という気持ちで僕はボードゲームをやってることが多い。僕自身もテロリストの1人なのだ。

で、お決まりの「まあ、人それぞれだよね」という十人十色説、逃げの一手に落ち着いてしまう(さっき否定したばっかりなのに!)。ただし、こういう考え方は一種のニヒリズムに到達する。つまり、長考問題は、考えようによっては「とても簡単な問題」にもなるということだ。悩む必要はなく、妥協もしくは定義してしまえば答えは一つに集束する。これは一種の諦めだが、かなり反論が難しい常識でもある。そうした長考問題を覆うニヒリズム「所詮、長考問題は○○だ」に陥ることなく考えたい。僕にはそんな天の邪鬼な気持ちもある。


■自由と場

で、長考問題を解決するとはどういうことなんだろうかと、改めて考えた。方法論と理念が混在してごちゃごちゃになっているところを、改めて「そもそも問題の解決とは何なのか?」という根本から考え直してみたのだ。そう考えて1点気付いたことがある。

それは「長考問題は常にメタ的だ」ということだ。

例えば、こんな長考問題の解決法がある。「砂時計を用意して、毎手番、この砂が落ち切る前に手を打つようにしよう」と、こんなことをゲーム開始前に取り決める。これは、とても素敵な解決法だ。ただし、これはルールの追加(改変)なのだ。もし、そのゲームに砂時計が本当に必要であれば、本来的にはゲームの箱に砂時計が入っているか、ルールブックに砂時計を準備するよう明記してあるべきなのだ。もし長考問題がゲームとしての問題であれば、それはルールの不備(問題)として議論するべき話になる。しかし実際はあまりそういう話にならない。ならないからそういう話ではない、ということではなくて、そういう問題として多くの人に捉えられていないということだ。

なにより、事実上、ボードゲームの多くは「無制限長考」を容認している。だからこそ「問題」としては常にメタ的にならざるを得ない。そして更に重要なこととして、実際にプレイされる場合、ほぼ99%のゲーム卓において、この無制限長考は事実上、追認されている。つまり砂時計で時間制限しましょうなんて解決策があることは分かっていても、試合など限られた状況でなければ、ほとんど実践はされない。この事実が重要だと考える。なぜ実践されないのだろうか。それは、砂時計を用いてプレイしてしまうことが自由の制限であるからだ。後に詳述するが、この「自由」というのがこの記事の要点の1つ目だ。

視点を変えてもう1つ、長考問題が発生する「場」というものを考えてみたい。長考問題は、身内同士のクローズドなボードゲーム会ではほとんど問題にならない。なぜなら、そういう摩擦を吸収できる関係が前提としてあるからだ。極端な言い方をすれば「長考してんじゃねーぞ、クソ野郎(笑)」という言葉が許される間柄で、長考問題は発生しない。それゆえ、オープンなゲーム会で全く見知らぬ人や、見知ってはいるがまだ遠慮のある人とのプレイにおいてしか(厄介な)長考問題は発生しない。だから、たとえオープンなゲーム会に行っても、仲のいい人(既に仲良くプレイできた実績のある人)とだけプレイすれば問題は発生しないだろう。これは長考問題がメタ的であることを端的に示す証左でもあるだろう。以上のように問題が発生する「場」が本記事の要点の2つ目だ。


■願望としての長考問題

上記の2つの要点を併せて考えると、長考問題の全く別の側面が見えてくる。即ち、僕たちは「本当に長考問題を解決したいのか?」という「願望の問題」としての長考問題だ。

1つ目の「自由」から考えよう。仮に長考を許せと言っても、どんなに長い長考でも許してくれる特殊な人間を求めるわけでもない。負けたら悔しがるし、早く次の1手を打ちたい、早くお前の手番を終わらせろと願う、そういうエゴがあることが普通だ。誰もが、多少なりとも「エゴのある人」とゲームをすることを自然と覚悟している。しかし、何かを快適にするために「自由を制限」することは、そういうエゴをガバナンス(統治)で抑え込んでしまうことになる。

自ら砂時計を持参し、ゲーム開始前に時間制限を提案する。それをしないのは何も提案する勇気がないからそうしないのではなく、そういうエゴを抑制するガバナンスの「危うさ」を知っているからこそ、やらないのではないか。

仮に砂が落ち切る前に手番が終わらなかった人にどんなペナルティ(罰)を与えるべきかを検討する段になれば、より一層その仕組みの「危うさ」が際立つだろう。長考を不快に感じたりすること自体は決して不自然な感情ではない。しかし、長考は「長考される側にとっても」ただ罰すべき悪になるとは限らない。長考についてどういう立場の人であっても「柔軟であること」を求めていることは大概一致している。だからこそ、敢えて僕たちは無法状態(=無制限長考)を選択するのではないか。まさしく長考によって他人を罰しなくていいように。

そして、この「自由」に2つ目の「場」の要素が重なってくる。現在進行形でボードゲーム人口が増えている日本のボードゲーム界において、オープンなゲーム会に行くことは、とても一般的なことだと思う。仲のいい人とのクローズドなゲーム会もいいけど、見知らぬ人と卓を囲むワクワク感がオープンなゲーム会にはある。もしかしたら失礼な人とぶち当たってしまうかもしれないリスクを抱えつつも敢えて参加する。それは1つの願望であり、選択だ。

こう考えてみると、長考問題とは、結構いろんな人にとって無意識に「欲望されている」問題なのではないか。「長考したら、相手は不快に思うかもしれない」と心配する。そういう「心配が必要な」他人とボードゲームを遊びたい。そう思うからこそ、そういう「自由」「場」を選択している。「ゲームを楽しみたい」と思う人が「一切のリスクがない無菌室でプレイしたい」と思っているとは限らない。もちろんだからと言って、あらゆる不快さを引き受ける覚悟ができているわけではないだろう。しかし、最初からその「不快の芽」を全て摘み取ってしまう「沈黙した世界」を欲しているわけではない

そして、この「欲望される」長考問題を想像することで、長考問題は解決しない方向が決して逃げ道ではなく、むしろ進むべき道でもあると考えられる。


■誰の問題なのか

考えてみてほしい。長考問題が発生しない世界は本当に平和な世界なのか?むしろ殺伐とした世界なのではないか。「長考あるべし」という原理主義も、「長考なくすべし」という原理主義も、そのどちらにも眉をひそめてしまうのはとても普通だ。なぜならほとんどの人が「柔軟であること」「罰しなくていいこと」を求めているからだ。いかなる形であろうと「本当に」長考問題を解決してしまうと、その先にはディストピア的な世界が待っている。不快なんだから管理すればいい、という発想に対する警戒感によって、長考問題はむしろ「あっていい問題」に転換される。より実際的な話をすれば、長考問題はガバナンスによって解決するべき問題ではない、ということだ。

例えばボードゲーム会で暴力をふるう人間を入場制限する。それはガバナンスを利かすことが妥当な問題だから問題にならない。しかし、全ての問題にそうした解決を適用することが幸せにつながるとは限らない。長考問題は、まさしくそういうガバナンスを効かさないことを覚悟すること、そのことに意義がある。

例えば、各テーブル内で小さく個々に長考問題を「いなす」こと。そのことで、むしろ「自由」は守られ、エゴがぶつかり合うゲームプレイの「場」が維持できる。こうした言わば「卓上の自治」を成立させること。それは長考問題を「解決」するのではなく「いなし」ていると言える。一人ひとりが、その場その場で長考問題を「いなす」ためのコミュニケーションを模索する。あらゆる場面で効く魔法のような解決策がないということは、そういうことだし、それが多くの現場で実際なされている努力だ。

例えば、長考している人に言葉を掛けるのも1つのいなし方だが、長考にイライラしちゃてる人に言葉を掛けることも1つのいなし方かもしれない。「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではない。もちろんこれは「そうしろ」という話でなく、考え方の話としてのことだ。だから、マナーという言葉にしても、それをルールとして捉えるのか、アーツ(技術)として捉えるのか。その違いは大きく、そして深い溝がある。

最初に逃げの一手と言った十人十色説はゴールなのではなく、スタートラインだ。それは負荷を各個人が担う「卓上の自治」を要請する。そして長考問題がややもするとイヤらしい問題になりかねないのは「僕じゃない誰かによってガバナンスを効かせてくれないかな」と他人まかせになりかねない部分にあるのではないか。長考問題が「だれそれが悪い」という問題であれば、どれほど簡単だろうか。むしろ解決が原因を決めてしまう問題だからこそ難しいのだ。だからこそ「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではないのだ。解決だけを享受することはできない。

経験者が没頭し過ぎて初心者の人を置き去りにすることがないように配慮したり、逆に没頭するあまり長考しすぎてしまった他人を会話の中で許すようにしたりする。そういうことが単なる諦めではなく自分の選択だと思うことで、世界の見え方は変わる。

他人にだけ負荷や責任を求めない姿勢こそが「いなす」ことを可能にし、ニヒリズムは自らが問題を引き受ける覚悟をした時にその哀しさから解放される。

だからこそ、こう言えるのではないか。
ボードゲームにおける長考問題は(誰かによって)解決されるべき問題ではなく、(私が)引き受けるべき問題であると。

2013年9月15日 (日)

【ボードゲームレビュー】アディオスアミーゴ ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](4人プレイの評価です)

プレイ人数:2~4人

プレイ時間:15分


サーチ&デストロイ。

簡単なゲームの流れ

  • ①各プレイヤーの前には3枚のならず者が描かれたタイルが置かれる。そのタイルには2つの数字が書かれている。
  • ②ゲームを「アミーゴ!」の掛け声とともにスタート。自分の銃弾マーカーを2枚ひっくり返す。銃弾マーカーにも数字が1つ書かれている。
  • ③他プレイヤーのならず者タイルの2つの数字を足すor引いた値が、自分の銃弾マーカーの値と同じであれば、その銃弾マーカーをそのならず者タイルの上に置く。そうすると、そのならず者を撃ち倒したことになる。
  • ④自分のならず者が3枚とも倒されたら脱落。最後まで生き残っていると金塊ボーナス。撃ち倒した数によっても金塊が得られる。
  • ⑤5ラウンドして、最も金塊を集めた人が勝ち。

Adios_amigo_02


ゲームの総評


計算させるアクションゲームだ。単純な一桁の計算だけど、これが結構アツイ。どこに目的の数字があるか。それを探すサーチアクションの要素が楽しい。撃ち倒せるとこれがとても爽快。ちゃんと早撃ちガンマンっぽいゲームになっている。

コンポーネントもいい。リロードをするための弾丸や無敵時間を作れるダイナマイト。正直、ルールなどもユルユルで決してかっちりとしたゲームではない。けれど、楽しい。負けても楽しい。

Adios_amigo_03


ゲームの各ラウンド開始時に「アディオス!」「アミーゴー!」とプレイヤー全員で掛け声を掛けながら遊ぶ。無性にこれが楽しかった。パーティゲームは常にどこか「バカになる」ことが必要だ。その「バカさ加減」とうまく距離感がつかめるかどうかが、パーティゲームを楽しめるかどうかのカギになったりする。その点、アディオスアミーゴはその距離感が凄く掴みやすかった。なんと言ってもやるのはたった一桁の足し算・引き算だ。ゲーム全体がシリアスになりようがない雰囲気で、ゲームに対してとても身を委ねやすい。

間抜けなガンマンという雰囲気もゲームのシステムに合っていて、違和感がない。締めにもイントロにもOKな「便利な」ゲームでもある。

まだまだ僕にはこうした「良いゲームなのによく知らないゲーム」がきっといっぱいあるのだろうなあ。そう思うとワクワクしてしまう。


評価★★☆☆とした理由……なんか妙に楽しかった。この楽しさは、インストや共に遊んでくれたメンバーの方の人柄にも依るところが大きい気もする。雑なところが多くて、欠点を挙げたら色々あるんだろうが、そういうことを無効化する魅力のあるゲームでもある。

2013年9月13日 (金)

【ボードゲームレビュー】モンスター画家 ★★☆☆

評価:★★☆☆[2/4](7人プレイの評価です)

プレイ人数:4~30人

プレイ時間:20分


お絵かきの二人羽織。

簡単なゲームの流れ

  • ①1人1枚、紙を受け取る。紙には、正面を向いて立つ人の絵が雛型として薄く描かれている。
  • ②各自、一人有名人を頭の中で決めて、紙の裏面にその人の名前を書く。
  • ③紙を縦に半分に折り、思い浮かべた有名人の左半身を描く。
  • ④書き終わったら隣の人にその紙を渡し、その人は裏面の名前を確認して、その右半身を描く。
  • ⑤書き終わったら広げて、それが誰を描いた絵かをみんなで当てる。当てると得点。最も得点が高い人が勝ち。

ゲームの総評


カラオケで歌うのは恥ずかしいのだけど、絵を描くのは結構平気だ。どちらも同じくらい下手なのに、この違いがあるのはなぜだろう。絵の場合は、下手であることでむしろ、そのゲームを盛り上げる役割を担えている、と思いやすいからかもしれない。苦手な人も多いだろうが、個人的にお絵かきゲームはとても楽な気持ちで参加している。

いろいろなお絵かきゲームをやったが、その中でもモンスター画家は圧倒的に軽い。元々軽いノリのお絵かきゲームというジャンルの中でも最軽量モデルと言えるだろう。「ちょっとやってみる」ことがとても簡単にできる。気軽さが重要という場面は結構多い。そういう意味で、モンスター画家はとても「使えるゲーム」だ。

このゲームに付属している紙には、人の雛形が薄く描かれている。この雛形に合わせてみんなが何かしらの有名人を描く。でも、この雛形にどうしても自分の思い描く有名人の姿形は合わない。「僕の思い描く関羽はこんなに頭デカくないんだ。どうやって描けばいいんだ」という悩みが実にどうでもよくて楽しい。

まず一人目が左半身を描き、隣の人が右半身を描く。お互いがどんな絵を描いたか見ないで描くため、完成した絵はモンスターというより、むしろクリーチャー。時に奇怪な化け物が産まれる。しかしどれも性根は悪くなさそうで、怖くないモンスターばかりだ。

描く対象によっては、特徴的なアイテムを持っていたりする。チャップリンであれば杖、西郷隆盛なら犬とか。こういう特徴的なアイテムを二人とも描きこんでしまったりすることがよくある。描いた2人とも大真面目なのに、両手に杖を持った変なチャップリンが出来上がる。シンメトリは自然界ではむしろ不自然なんだという。そんな話は聞いたことがあったが、左右対称というのはとても分裂的でもあるのだと改めて思った。別の人間が書いているからこそ、時折そうした気味の悪い左右対称性が出現してきて、それが面白い。

このゲームが凄いのは、下手な絵が上手な絵を簡単に駆逐してしまうところだ。だから、正直言うと絵が得意な人には申し訳ない気分にもなる。でも、そういう乱暴なシステムがとてもいい作用をもたらしている。予想に反して「ちゃんとした絵」になることも時にある。それもまた可笑しい。とっても粗野な面白さだけれど、モンスター画家は値段だけでなく、ゲームとしての存在感もリーゾナブルだと思う。


評価★★☆☆とした理由……面白い。ゲームとしてのスケールがその面白さにピッタリとハマっている感じ。600円ならホント買い。

2013年9月 8日 (日)

【ボードゲームレビュー】ビッグチーズ ★★☆☆

Big_cheese_01

評価:★★☆☆[2/4](6人プレイの評価です)

プレイ人数:3~6人

プレイ時間:30分


コンポーネントが作るゲーム。

簡単なゲームの流れ

  • ①山札から1枚めくり、出てきたカードをみんなで競る。
  • ②カードには6や12や20など、サイコロの種類が示されている(例:12の場合は12面体サイコロを指す)。
  • ③競りでは手持ちの10匹のネズミをお金のようにして使う。
  • ④競り落としたサイコロを振ることでコマを前に進められる。
  • ⑤一番早くコマをゴールまで進めた人が勝ち。

Big_cheese_02


ゲームの総評


この魅力的な箱(缶ケース)にやられて思わず買ってしまった人も多いと思う。僕も危うく買うところだった。もう予算越えだったので、ゲームマーケットでは泣く泣く購入を見送った。

これ面白い。盛り上がる。サイコロを振るのは一大イベントだ。この「時々サイコロを振る」というのがいい。サイコロを振る時は、みんなが固唾をのんで、それを見守る。小さな目が出れば、みんなが歓喜する一方、振った人は落ち込む。逆に良い目が出れば、みんなでブーブーと文句を言う。ショボイ出目を待つ時のみんなの気持ちだけは協力ゲームのようだ。ゲーム全体に一体感がある。

ビッグチーズはレースゲームであり、競りゲームだ。前に進むためのサイコロは競りで獲得する。競り落とさないと一歩も前に進めない。競り値を決める時は物凄く考えさせるくせに、結局最後はサイコロの出目次第。運に依ってしまう。この流れはテーベにも似ている。ビッグチーズの方が全体的には淡白だし大雑把だけど、コンポーネントの可愛さというか受け入れやすさのおかげか、ゲームとしてまとまりがある。この辺りがこのゲームへの好感度に大きく貢献している。

プレイヤー自身がゲーム空間を作り上げていく競りゲームというのは、不思議なシステムだ。競りゲームはルールや仕組みだけを聞くと「むき出しの骨組み」を見るような、フレームが目立つゲームにも思える。しかし、こうした素敵なコンポーネントとともに実際に遊ぶことで、ずっと贅沢で豊かな遊びのように感じる。

ビッグチーズを所有欲に刺激されて買ってしまった者は幸せだ。いろいろな点において決して大傑作と言えるゲームではないが、不思議と人を幸せにするゲームであるように思う。


評価★★☆☆とした理由……分かりやすさがいい。初心者であっても「あ、このゲームはそうやって考えて競りに参加するんだ」と自然に学んでしまえるのがいい。「ビッグチーズでなくてはならない」という唯一性はあまりないけれど、いつどんな場で出してもみんなを「参加させてくれる」点において素晴らしいゲームだと思う。

2013年9月 1日 (日)

【ボードゲームレビュー】ひもサバンナ ★★☆☆

Himosavanna_01_2

評価:★★☆☆[2/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:3~5人

プレイ時間:30分


シビアなひも。

簡単なゲームの流れ

  • ①テーブルには動物のイラストが描かれたカードがたくさん置かれる。
  • ②各自の手番では、輪っかの形状になったひもで動物カードを囲み、捕まえる。
  • ③捕まえた動物の数に応じて、事前に選択した調査カード内容(肉食獣1匹あたり2点とか)に従った得点計算をする。
  • ④ひもで囲んだ動物のどれかに調査コマを置くことで、更に最後の得点計算で勝利点がもらえる。
  • ⑤5人の場合、全4ラウンドで終わり。一番得点の高い人が勝ち。

Himosavanna_02


ゲームの総評


輪っかになったひもを渡され、そのひもで動物カードを囲む。多くのカードを囲むと高い得点になる。できるだけ多くの動物を囲みたいけれど、カードを動かしてはいけない。ひもが中途半端にカードにかかったりすると、そのカードは得点にならない。昔こんな遊びをしたことがあるような気さえする。どこか懐かしい気持ちになるゲームだ。

素敵なのは、小さい子どもでも遊べる点だ。様々な動物の名前が覚えられるという教育的要素もある。ここまで完成度を高めて、1つの商品として作り上げられているのは凄い。たとえこのコンセプトを思いついても「モノにならない」商品に陥る可能性は十分にある。つくづくこの完成度で作り上げられていることが凄い。

そう思う反面、なんというか、その、このゲームが醸し出す妙な空気というのは何だろうと思ってしまう。さっきまで凄く楽しくひもでカードを囲う遊びに興じていたはずなのに、自分の手番が終わると賢者タイムが始まったように冷静になってしまう。

この落差の激しさが非常に強く心に残った。

手番でやれることが多いのも1つの要因かと思う。自分の手番でやれることのメインはもちろんひもでカードを囲むことだ。それ以外に、調査カードを選択する。自分の持つ動物カードを置く。そして、調査コマを置く。この残り3つのアクションは全てゲームの勝敗に丁寧に関連しあっている。頭ではそれらのアクションが勝敗に密接に関わることは分かるのだけど、その関わり方がいかにもよそよそしい。実態としては、ひもを置くところで頑張り過ぎて力尽きてしまい、残りのアクションがゆるふわになる。

だから、「ひもで動物カード動かしちゃった?まあ、別に良いんじゃない?」てな感じで、疲労感と共になあなあになっていく。自分に厳しく、他人に甘い。このゲームをやっているとボードゲームで激しく他人と闘い合うという事実が遠いおとぎ話の世界の話じゃないかと思ってしまう。それはそれで僕としてはとても好ましいことだと思うのだけど。

ほんわかプレイが自然とできてしまうゲーム。けれども、ひもを置いている時の集中力たるやなかなか激しい。1回のゲームの中で、シビアな印象とライトな印象が共存する。その全く異なる印象が融合することなく、そのまま存在している感じが、このゲームのプレイ感を強く印象づけているように思う。


評価★★☆☆とした理由……高い集中力で熱くなる時と冷静に点数計算する時の温度差に最後まで奇妙な感覚が残った。でも、楽しい。

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