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2013年9月28日 (土)

【コラム】放課後さいころ倶楽部に見る「ゲームからの逸脱と回帰」

書いてる本人は大真面目なんですが、記事の内容をそれほど真剣に捉えないでいただければ幸いです。

2013年9月。ボードゲームをテーマにしたある漫画が発売された。ボドゲクラスタのツイッターはその話題で一色になった。放課後さいころ倶楽部だ。ゲッサンを立ち読みした時は女の子がキャッキャする漫画というイメージだったので、ノットフォーミーと思いスルーしていたのだが、単行本の評判がとても良いので、Amazonで注文して読んだ。読んでみてびっくりして、反省した。面白かった。

本記事では、この単行本に納められている1つのエピソードを主題的に取り上げたいと思う。それは第4話、第5話の2回に渡って描かれたエピソードだ。放課後さいころ倶楽部では、各エピソードで1つのアナログゲームが扱われる。このエピソードは名作ごきぶりポーカーを扱っている。僕はこのエピソードがこの一巻の中でもっとも優れたエピソードだと思っている。というのも、この回は単なるほんわかラブコメディなのではなくて、ボードゲームの持つ秘められた魅力を鋭く抉り出していると思うからだ。なぜ素晴らしいと思うのかその理由を以下に長々と述べてみたい。

ちなみにこの記事はネタバレ満載なので、その点はご留意ください。


■放課後さいころ倶楽部のあらまし


読んだことがない人のために、簡単に放課後さいころ倶楽部のあらましを紹介する。主な登場人物は次の3人だ。まず、主人公の女子高生・武笠美姫(ミキ)。彼女は引っ込み思案で、内気な少女だ。クラスのみんなともなんだかなじめず気づくと一人でいる、そんなタイプの子だ。そんなミキのクラスに一人の転校生がやってくる。高屋敷綾(アヤ)だ。アヤは、とても破天荒で自由な性格。大人しいミキを翻弄するが、次第にアヤの屈託のなさに感化されてミキは心を開き、アヤと仲良くなっていく。そして、アヤとミキのクラスにいる委員長である大野翠(ミドリ)。彼女はカタブツで真面目。校則にもうるさい成績優秀な優等生だ。そんな3人を中心に物語は進んでいく。

ある日の放課後、アヤとミキがカフェでおしゃべりをしている時に、優等生のミドリが繁華街へ歩いていくのを目撃する。そしてミドリはそのまま怪しい雑居ビルに入っていく。不審に思った二人が尾けていった先、雑居ビルにあったのはなんとアナログゲームショップだった。ミドリはそこで店員としてバイトしていたのだ。生真面目な委員長ミドリの裏の顔を知った二人は、そのことをきっかけにボードゲームの世界にはまっていく。

今回取り上げるエピソードはそんな3人が放課後にカードゲームを遊ぼう、というところから話は始まる。そのカードゲームがごきぶりポーカーだ。

このエピソードでは上記のメイン3人とは別にもう一人のキャラクターが登場する。田上翔太という委員長ミドリの幼馴染だ。彼は、転校生のアヤに一目ぼれをしてしまい、アヤと仲良くなりたくて、そのごきぶりポーカーに参戦することになる。

ごきぶりポーカーは心理戦のゲームだ。嘘をみやぶるゲームである。しかし転校生アヤはものすごく嘘をつくのが下手だ。そのため、翔太は好きな相手であるアヤの嘘を簡単に見破ってしまう。

しかし翔太としてはそれは不本意なのだ。もちろんそれは、好きなアヤを自分がやっつけてしまうと、印象が悪くなって嫌われてしまうかもしれないと悩むからだ。これは分かりやすい。誰も好きな相手をコテンパンにやっつけたいとは思わない。彼は一人その孤独な心理戦を戦うことになる……。

以上がこのエピソードの要旨だ。さて、次からが僕の考察(妄想)だ。


■ゲームを楽しむための条件「逸脱」


先ほど挙げた不本意とは別に、実は翔太の不本意さにはもう一つの側面があると僕は考える。それは別に勝っても嬉しくないということだ。なぜなら、ごきぶりポーカーは嘘を見破ることを楽しむゲームだからである。しかし、アヤがあまりにも分かりやすい嘘をつくため、翔太は嘘を見破る権利(=楽しむ権利)を剥奪されている。これがもう一つの翔太の不本意の側面だ。

この見破る権利を剥奪するという事態は、何も分かりやすい嘘をつくアヤのようなケースでのみ発生するわけではない。例えば完全にランダムな手を出すケースでも発生する。

ごきぶりポーカーというゲームが面白いのは、人間がゲームの仕組みの一部になるからだ。仕組みと言っても人間は決してランダマイザーとしてゲームに組み込まれているわけではない。人間はサイコロの目とは違う。カードを見ずに「これはごきぶりです!」とランダムに宣言するような遊び方をしてしまうと、そのゲームを楽しむ権利を奪ってしまう。

なぜ楽しむ権利を奪ってしまうのか、それは端的に言うとゲームのルールを越えることができなくなるからだ。普段つけない嘘をつく背徳感を感じ、その背徳感を見破る面白さを楽しむ。それはルールが直接語らないゲームの仕組みであり、ゲームのルールを逸脱した場所であるからだ。このルールが直接語らない場所(=ゲームから逸脱した場所)にこそ面白さがある。「たとえゲームとして成立していても面白いとは限らない」のは、このルールが直接語る場所から逸脱できないからなのだ。

もう少し詳しく考えよう。「嘘をつく」ことをルールは厳密に規定できない。そう聞いても、そんなことはないと思うかもしれない。別ゲームだが、たとえばいかさまごきぶりで、蛾のカードを出す時に絶対に嘘をつかなくてはいけないというルールがある。ルールは「嘘をつくこと」を規定できているじゃないか、そう思うかもしれない。

しかし、実はこれは「嘘をつくこと」がルールなのではない。「カードの内容と違うことを宣言すること」がルールなのだ。「嘘をつく」ということは、単に「事実と違うことを言う」ことではない。そのことは「言い間違え」と「嘘」とでは何が違うのか、を考えてみると分かりやすい。この違いを人間は直感で理解できる。しかしルールブックはその違いを厳密に規定することができない。それを判断し遊ぶことができるのは人間だけだ。人間だけがゲームのルールを逸脱し、逸脱したところ(言い間違えの差異)に面白さを感じる。

僕はこのことがブラフゲームにだけ関わることではないと考えている。放課後さいころ倶楽部のエピソードが秀逸であるのは、それを明らかにしている点にある。つまりあらゆるボードゲーム、アナログゲームの面白さの1つとしてゲームからの逸脱があるのだ。

たとえば、このゲームがごきぶりポーカーでなく、カタンだったとしよう。翔太の隣にアヤが座っていたとして、アヤが無防備に持つ資源カードが(角度が悪いのか)丸見えになっている。翔太は、別に見たくもないのに、アヤの持っているカードが見えてしまう。翔太の悩みは、ここでも同じだろう。アヤの持ち札が分かってしまうからこそ、どのように交渉すればいいか、どこに盗賊を置いたらいいかは他のプレイヤーよりも正確に判断できてしまう。不幸はそこにある。

勝ちたいけど、勝てることが決まった世界では、誰も勝ちたくはない。勝つことを楽しむためには「勝てるかどうか分からない」ことが条件になる。勝てることが予め決まっているゲームはそれ以上逸脱できない。それは単なる手続きになってしまう。

だから、ごきぶりポーカーでも翔太は楽しめない。ゲームを楽しめてはいない。ゲームはアヤの関心を買うための手続きになってしまう。しかし、このエピソードは最後に大逆転を用意する。なんと最後の最後で、翔太の意図が完全に外れてしまうのだ。圧倒的に有利だったはずの翔太。彼はまったく予想だにしない「敗北感」を味わうことになる。それは単なる負けではなく、初めてゲームのルールを超えて「逸脱」した先を考えたようとした結果、苦汁を味わうこととなった。とても皮肉なラストだった(どういうことが起きたのかは未読の方はぜひ実際に読んでほしい)。

しかし、これがゲームだ。こうした「裏目」が出ることがゲームの面白みなのだ。ゲーム終了時にはがっくりとした翔太が描かれる。しかし翔太は苦汁を飲むことによって、ようやく楽しむ権利を取り戻したのだ。それまでの翔太は自分が把握している世界が完全なものだと思い込んでいた。しかし、本当はもっと世界は広かったのだ。狭く閉じた世界を更に逸脱するもっと広い世界(ルール)があることを身を持って知ったのだ。

この世界が広がる感じ。今まで見えていた世界が刷新される快感が多くのボードゲームファンを魅了してやまない快感ではないか。僕たちはそれを「より深くゲームを理解した」などと表現する。この世界のルールが変わる瞬間の面白さ、当たり前の世界が一瞬にして姿を変える面白さ。このエピソードは、ラブコメを絡ませることによって、ボードゲームで日常的に発生する世界のルールが変わる瞬間を表現している。翔太の落胆は、ボードゲーマーの「世界のルールが変わる快感」のネガポジ反転した姿なのだ。

しかしだ。ここで疑問が生じる。「逸脱すれば面白いのか?」という疑問だ。ゲームを逸脱すればいいのであれば、それはある意味単純だ。無茶をすればいい。破天荒なことをすればいい。そして、実際にそれは刹那的に確かに楽しい。むちゃくちゃな一手を打つとか、明らかに不合理な手を打ってみるとか。「月下の棋士」の初手9四歩みたいな、そういうことをして場が盛り上がるのは、実はこのルールが刷新される面白さと通低しているところがある。パーティゲームなどで誰かが無茶をやって「あー、そういう楽しみ方もあるかな」と思うのは大抵これだ。しかし、こういう無謀さ逸脱とは少し違うものとして語りたい。では、一体何が違うのか。

なんと、放課後さいころ倶楽部の第5話が真に凄いのは、この疑問にも答えている点にある。それがどこにあるかを次に見てみたい。


■ゲームを成立させるための条件「フリ」


まずそもそも、ここでのごきぶりポーカーは破綻するはずだった。なぜならアヤは嘘が完全にばれる人であるからだ。ごきぶりポーカーをやったことがある人はよく分かるが、このゲームは一人負けを決めるゲームである。だから、嘘をついていることが100%分かるような人が一人でもいるとゲームは破綻する。もはやカードを差し出すだけの作業になってしまう。

では、なぜゲームが成立しているのか。それは翔太がアヤのことが好きだからだ。嫌われたくないからである。だから翔太はゲームを成立させざるをえない。アヤの下手な嘘を指摘して「お前の嘘、完璧に分かるよ」と言って、ゲームを破綻させることはできない。そして破綻させないだけでなく、自分も負けたくないため、翔太は自分なりの心理戦というゲームに参加せざるをえない。ここで、破綻するはずだったゲームが一転してすごく真っ当に進行しているゲームとして成立することになる。

翔太は自分が負けず、かつアヤを負かさないために、「パスをしてやり過ごす」という作戦を立てる。そしてゲームは「外見上」とても平常運転しているように見える。ここで重要なのは翔太はアヤの嘘を見破れるというチート行為を封印している点だ(文字通りチートではないのだが)。翔太はアヤの嘘を見抜けないフリをして、アヤの嘘を見抜けなかった世界でもあり得るストーリーを再構築しようとしている。

この分からないフリをするというのがとても凄い。これが描きだされただけでも、この漫画はボードゲーム漫画として凄い価値がある。なぜなら実はこのフリというのがボードゲームの日常で凄くよく見られる現象の1つだからだ。

たとえば、あなたがカルカソンヌをインスト(説明)するとしよう。インストする相手は全員ボードゲームの初心者でカルカソンヌも初体験だ。あなたは単にインストするだけではない。できればカルカソンヌを、そしてボードゲームを好きになってほしいと願っている。ルールを一通り説明し終わって、ゲームが開始する。あなたは経験者であるから強い。当然破格に他のプレイヤーよりも強い。おそらく最善手と思われる手がいくつか頭に思い浮かぶ。「あのタイルはもう出切っているから、ここに道を置けばきっとこの都市は完成しないな」とあなたは冷徹に計算する。しかしだ。そういう最善手をあなたは打たない。そして次善の手、次々善の手を打つ。初心者を殺してしまわないために、あなたは最善手が分からないフリをする……。

こうした経験はないだろうか。おそらく長くボードゲームをプレイしていれば、似たような経験をするのではないかと思う。これは全く翔太のやっていることと違わない。翔太のやっていることは決して特殊な行為ではない。翔太の姿はボードゲーマーの姿でもあるのだ。

こうしたフリをすることで重要なのは、本当のことを言わないということだ。それは翔太がアヤのバレバレの嘘を明言しないことと同じだ。彼は取り繕う。ゲームを取り繕い、真っ当に進行しているように見せかける。絶対に言わないのだ、本当は知っていることを。さも知らないことが当然であるように成立させる。そうした世界を作る。


■次もゲームを楽しむための「回帰」


しかしこうした行為こそが、先ほど挙げたゲームからの無謀な逸脱への抑止力となる。

なぜ無謀への抑止力となるのか。その理由を語るため、もう一人のキャラクターに焦点を当てよう。実は翔太とは別に、もう一人フリをしているキャラクターがいるのだ。それは委員長キャラであり、最もボードゲームに精通しているミドリである。彼女は(別エピソードだが)冷静にモノローグでこう語る。「他人の心なんてそう簡単に読めるものじゃないし…」。これも本当のことであり、疑いようのない真理だ。しかし彼女はそれを表立って語らない。なぜなら、そう語ることで、ごきぶりポーカーというゲーム、ひいてはブラフゲームは成立しなくなるかもしれないからだ。彼女の真理は「分からないことをお互いに当てあって何の意味があるの?」という虚無に陥る危険な真理なのだ。だから彼女はゲームを成立させるギリギリの論理だけを展開する。たとえば「初心者が『カメムシ』なんて…とっさに出る名前じゃないわ。嘘をつく時はゴキブリとかハエとか覚えやすい種類を言うものよ」と。

彼女はこれがある程度の妥当性はあるが、あらゆる場面で通用する真理だとは捉えていない。本当の真理はモノローグでしか語らない。逆に言えば、本当のことを知らない「フリ」をする。それが真理ではないと分かっているのに、あえて100%の真実でないことを口にする。なぜ妥当な仮説は口にするけれど、真理は口にしないのか。それはゲームから逸脱しすぎてしまう危険性があるからだ。逸脱して虚無に陥ることなく、ゲームの世界に戻ってこれることだけをミドリは語っているのだ。

ゲームの世界が一瞬にして変わる逸脱の快感。しかし、それはルールの中に再び回帰することで、遊ぶことが継続可能になる。単なる無謀さが一時的には楽しくても、時が経つと空しくなってしまうのはこの点にある。逸脱によってゲーム世界が変わる瞬間が色褪せないとしたら、ちゃんとゲームの世界に帰ってこれるからだ。この相互反転するダイナミズム、ちゃんと帰ってこれることが必要なのだ。経験者がルールを深く理解するたびに、心の中のルールブックを厚くしていく。厚くなったルールブックという結果が面白いのではない。その過程を繰り返すことができるダイナミズムこそが面白いのだ。チート(インチキ)が虚しいのは、帰ってくることも、それ以上逸脱することもできない虚無に陥いるからだ。

翔太はフリをしていた。彼のフリによってゲームは成立していた。と、同時にミドリもフリをしている。彼女は人間の心なんて分かるわけがないと知っている。しかし、そのことを知らないフリをしてゲームに参加し、ゲームを成立させる。そして翔太の嘘をもっともらしい理屈をつけて見破る。しかし彼女は知っている。それは完璧な理屈ではないことを。ミドリと翔太のフリに違いがあるとしたら、それは次のことだ。フリの背後にある真理がゲームに回帰できる可能性を保持しているか否か。この点である。だからミドリは先ほどの真理のすぐ後にこうも語るのだ「相手が人である以上このゲームに必勝法は存在しない」と。(※)

翔太の心の中のごきぶりポーカーのルールブック(真理)は更新をやめていた。翔太はゴールにたどり着いていた。それ以上考える必要はないところにいた。なぜならアヤの嘘は明白だからだ。だから本当であれば、翔太はゲームの楽しさも深さも知ることがなく、そのゲームを単純に終わらせていただけかもしれない。

しかし、ここで奇跡が起きる。その奇跡の大逆転によって彼は「幸運にも」挫折することができた。その奇跡によって彼はまた心のルールブックを更新することができた。天使のように正直者のアヤでも、その真意が100%見抜けるわけではない。そんな新しいルールを得ることができた。そのことで再びゲームが成立する世界に帰ってきたのだ。だから彼は幸運なのだ。

一方で、仮にアヤの嘘がバレバレであることを翔太が口に出してしまっていたらどうだろう。その時点でゲームは破綻し、こうして翔太のルールブック(世界)が更新されることもなかっただろう。翔太のフリ逸脱は相補関係にある。彼はフリを続けたおかげで、この逸脱して回帰する地点にまで到達できた。

僕たちの経験でも同じではないだろうか。ついさっきインストしたはずの初心者が思いもよらない巧手を打ち、思わず感嘆してしまう。あなたがもし感嘆したのなら、いわずもがな初心者は自らの一手に感動することもあるだろう。こういうことがあるからフリは重要なのだ。初心者に本当のことについて講釈を垂れることは虚しく、むしろフリによってゲームを成立させることの方が遥かに意義深い。僕たちは分かっていないフリをする。しかしそれはフリではなく本当に分かっていないのかもしれない。フリによってその可能性を残しておくことができる。残しておく必要がある。フリのおかげで、今の世界を更新できるのかもしれない、まさしく翔太と同じように。僕たちの分かっていないフリは別に偉くともなんともない。挫折する前の翔太のようにゲームを舐めきってしまわないための、むしろ無知の知という保険なのだ。

破綻するはずのゲームがなぜ成立し、そしてなぜ最後には翔太までが楽しむ(=悔しがる)ゲームになったのか。この逸脱と回帰のダイナミズム。その大きな流れが一本の物語としてこのエピソードに集約されている。このエピソードがずば抜けて凄い話であると僕が考える根拠である。

ところで、以上のように長々と語ってきたような拡大解釈がなぜ可能なのだろうか。それは、このエピソードがゲームと無関係な恋愛という要素をゲームプレイに直接盛り込んでいるからだ。僕たちがゲームを楽しむとき、それはゲームだけでゲームをしているのではない。ゲームだけでゲームの楽しさを語ることは本質的に不可能であり、ゲームを超えたイマジネーションやバックグラウンドがどうしても必要になるのではないか。そんなことを思わずにはいられない。


補記(※)……ちなみにもう一人フリをしているキャラクターがいる。別のエピソードだが、人狼回での主人公・ミキだ。彼女もまた分からないフリをしていた。しかしそのことによってゲームは成立し、劇的なドラマが生まれた。分からないフリは決して傲慢を意味しないのだ。

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コメント

放課後さいころ倶楽部を知り合いに勧められて読んでみました。
色々思うところがあり、検索してこちらのサイトがヒットしましたもので、書きこませていただきます。

>今まで見えていた世界が刷新される快感が多くのボードゲームファンを魅了してやまない快感ではないか。

そうおっしゃっておられますが、「勝つことの快感」は必要ではないのでしょうか?
自分は学生時代にモノポリーが仲間うちで流行っていたもので、二年ほど毎日のようにやっていました。
しかし勝ったのは初めて二回目ぐらいに一度だけで、あとは負け続け、一度も勝ったことがありません。
みんながそれで盛り上がっているから毎日加わっていたのですが……。
卒業まぎわに「お前交渉下手すぎ」と仲間に言われました。
世界が刷新どころか、暗黒になりました。

それでも、楽しめるのでしょうか?
自分はもう二度とモノポリーはやりたくないですし、交渉を必要とするカタンに誘われても参加する気はありません。

自分にはそういう経験があるもので、ボードゲームは楽しいよ、と勧めてくる人にどうしても聞きたくなってしまいます。

「全然勝てなくても楽しいの?」と……。

放課後さいころ倶楽部は、勝敗についての描写を微妙に避けているのも気になります。

たとえば三人一組で参加する団体戦のあるゲームの大会に参加したとして。
ミキのせいで負けた、というのを何度も何度も繰り返したら。
他の二人は、それでもなおミキを仲間に誘い続けるでしょうか?
三人しかいなければミキを参加させ続けるでしょうが、他にもっと上手い仲間ができたら、ミキを外すのではないでしょうか?

ボードゲームは楽しい、と勧めてくる言説を見るたびに、どうしてもそのことが気になってしまいます。
「勝ったり負けたり」が楽しい、というのはごもっともですが。
「まったく勝てない」でも楽しめるものなのでしょうか?

サイト主様の「勝敗」に関するご意見をうかがってみたいと思っております。

それでは、失礼いたします。

ご意見ありがとうございます。


シルバーブルーメさんのご意見はとても誠実だと感じました。


「勝敗」という問題は、きわめてセンシティブで、
シルバーブルーメさんのおっしゃる「勝てるからこそ楽しいのではないか」
「負けたらイヤな思いをするではないか」というのは
実にボードゲームの真実を突いている感想だと
僕は思います。


シルバーブルーメさんは
「『まったく勝てない』でも楽しめるものなのでしょうか?」
と疑問を持っておられますが、
この疑問は、
「負けても楽しめる方が正しいってことなんでしょうか」という煩悶にも
なっているように感じました。


すなわち、
「勝てないと楽しくない自分やそもそも勝てない自分は、
ボードゲームという娯楽に向いていないのではないか」という
悩ましさを感じました。


僕がシルバーブルーメさんのおっしゃることをとても『誠実だ』と感じたのは、まさにここです。


多くのボードゲーマーは「負けたら楽しくない」などという「正直な」感想を
わざわざ表明したりしません。


表明しないのには、それにはそれで理由があるのですが、
しかし実際のところ、ほとんどのボードゲーマーは「勝てたら嬉しい、すなわち
負けたら(多少なりとも)楽しさが減少する」ということを感じていますし、
知っています。それは事実です。別にシルバーブルーメさんだけが
そう思うわけではありません。


では、ボードゲーマーはやせ我慢をしているのか、というとそうでは
ないのです。僕を含め多くのボードゲーマーは本気で「負けても楽しい」ことを
信じているのです。


ではなぜ信じられるのか。なぜ「負けても楽しい」と思えるのか。


ここが重要なのですが、実はこの「負けても楽しい」と思える理由が「1つではない」
ということが重要だと僕は思っています。つまり人によって違いますし、同じ人でも
ゲームや場面によってこの楽しさが異なったりします。


重要なのは「楽しさ」には無数の種類があるということです。
無数の種類があるということは、実はあの3本の矢の逸話と同じように
楽しさが「強度」を持つことになるのです。


例えば僕は、新しいルールを知ることが面白いし楽しいです。
好きな人と会話することが楽しいです。
知らない人と会話することが楽しいです。
ルールを説明して、理解してもらえることが楽しいです。
「このゲーム面白いね」と新しいゲームを知ってもらうことが楽しいです。
思いもよらない戦略を新しく思いついたときが嬉しいです。
最後はどうか分からないけど、ゲーム中、1位になれた瞬間が楽しいです。
駒を触るのが好きです。
ボードを広げる瞬間が好きです。
ルールを理解して、このゲームの作者の意図をビビッと感じ取った瞬間が好きです。
などなど。他にも色々あります。


1つ1つの「好き」や「楽しさ」は、
か弱く、細いモノかもしれません。
しかしこれら様々な種類の「楽しさ」が集まったときに、
「勝ち負け」を超える総体としての楽しさを感じたりします。


「まったく勝てない」でも楽しめるものなのでしょうか?
という疑問にうまく答えられたか自信はないのですが、僕自身の暫定的な答えは
まとめると以下のようになります。


「正しいたった1つの楽しみ方」というものは存在せず、
「無数のいろいろな楽しみ方」があるからこそ、
ボードゲームに勝てなくても楽しい、という事実を獲得できている。


少なくとも僕はそのように考えています。どのようにしたら、そうした「色々な
楽しいこと」に接することができるのかは、僕にもうまく分かりません。


ただ、無責任かもしれないのですが、
シルバーブルーメさんが今後、ボードゲームでそうした色々な楽しいことに出会えることを
(一ボドゲファンとしては)祈っています。

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