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2013年9月18日 (水)

【コラム】ボードゲームにおける長考問題は解決されるべきではない

長考にまつわる問題は、個人的に非常に明確な前提がある問題だと思っている。長考しないでいいかげんな1手を打つことで、ゲームはそのシステムから破壊される。これが大前提だと思う。誤解されてもいいので敢えて言うが、「長考してはいけない」というのは論理的におかしい。長考しないで、テキトーな1手を打つ奴は「絶対的に」ダメなのだ。ここは「人それぞれだよね」で済む相対的な問題ではない。適切な1手を打とうと思ったら、コンピュータや圧倒的な天才でない限り人間は長考するのだ。それを「長考しないで相手のことを慮って、早く一手打ちましょう」というのは理念(ボードゲームの論理)として間違っている。はっきり言ってしまえばテロだ。テロをどの程度認めるべきかというテロの程度を問う議論であれば成立する。しかし、この価値感を逆転させて、テロが正義であるとしてしまうと、それこそ黒ひげ危機一髪をやっていればよく、ボードゲームをプレイする必要は無くなってしまう。

…………。

さて、実を言うと、これまで様々な長考問題の話を聞いたり、読んだりしていて、以上のように考えていた。これは本心だ。しかし同時に、こう考えることで「とても嫌な気分」にもなっていた。「まあ、そりゃあそうかもしれないけど、ちょっと救いがないな。なんと言っても長考は嫌でしょうよ。楽しもうよ」と。実感としてもやっぱり長考すると申し訳ない気分になるし、逆に「長考しちゃってごめんなさい!」みたいな態度を見ると「ああ、この人いいひとだな」と思ってしまう。本当のところ「楽しくできれば、まあいいや!」という気持ちで僕はボードゲームをやってることが多い。僕自身もテロリストの1人なのだ。

で、お決まりの「まあ、人それぞれだよね」という十人十色説、逃げの一手に落ち着いてしまう(さっき否定したばっかりなのに!)。ただし、こういう考え方は一種のニヒリズムに到達する。つまり、長考問題は、考えようによっては「とても簡単な問題」にもなるということだ。悩む必要はなく、妥協もしくは定義してしまえば答えは一つに集束する。これは一種の諦めだが、かなり反論が難しい常識でもある。そうした長考問題を覆うニヒリズム「所詮、長考問題は○○だ」に陥ることなく考えたい。僕にはそんな天の邪鬼な気持ちもある。


■自由と場

で、長考問題を解決するとはどういうことなんだろうかと、改めて考えた。方法論と理念が混在してごちゃごちゃになっているところを、改めて「そもそも問題の解決とは何なのか?」という根本から考え直してみたのだ。そう考えて1点気付いたことがある。

それは「長考問題は常にメタ的だ」ということだ。

例えば、こんな長考問題の解決法がある。「砂時計を用意して、毎手番、この砂が落ち切る前に手を打つようにしよう」と、こんなことをゲーム開始前に取り決める。これは、とても素敵な解決法だ。ただし、これはルールの追加(改変)なのだ。もし、そのゲームに砂時計が本当に必要であれば、本来的にはゲームの箱に砂時計が入っているか、ルールブックに砂時計を準備するよう明記してあるべきなのだ。もし長考問題がゲームとしての問題であれば、それはルールの不備(問題)として議論するべき話になる。しかし実際はあまりそういう話にならない。ならないからそういう話ではない、ということではなくて、そういう問題として多くの人に捉えられていないということだ。

なにより、事実上、ボードゲームの多くは「無制限長考」を容認している。だからこそ「問題」としては常にメタ的にならざるを得ない。そして更に重要なこととして、実際にプレイされる場合、ほぼ99%のゲーム卓において、この無制限長考は事実上、追認されている。つまり砂時計で時間制限しましょうなんて解決策があることは分かっていても、試合など限られた状況でなければ、ほとんど実践はされない。この事実が重要だと考える。なぜ実践されないのだろうか。それは、砂時計を用いてプレイしてしまうことが自由の制限であるからだ。後に詳述するが、この「自由」というのがこの記事の要点の1つ目だ。

視点を変えてもう1つ、長考問題が発生する「場」というものを考えてみたい。長考問題は、身内同士のクローズドなボードゲーム会ではほとんど問題にならない。なぜなら、そういう摩擦を吸収できる関係が前提としてあるからだ。極端な言い方をすれば「長考してんじゃねーぞ、クソ野郎(笑)」という言葉が許される間柄で、長考問題は発生しない。それゆえ、オープンなゲーム会で全く見知らぬ人や、見知ってはいるがまだ遠慮のある人とのプレイにおいてしか(厄介な)長考問題は発生しない。だから、たとえオープンなゲーム会に行っても、仲のいい人(既に仲良くプレイできた実績のある人)とだけプレイすれば問題は発生しないだろう。これは長考問題がメタ的であることを端的に示す証左でもあるだろう。以上のように問題が発生する「場」が本記事の要点の2つ目だ。


■願望としての長考問題

上記の2つの要点を併せて考えると、長考問題の全く別の側面が見えてくる。即ち、僕たちは「本当に長考問題を解決したいのか?」という「願望の問題」としての長考問題だ。

1つ目の「自由」から考えよう。仮に長考を許せと言っても、どんなに長い長考でも許してくれる特殊な人間を求めるわけでもない。負けたら悔しがるし、早く次の1手を打ちたい、早くお前の手番を終わらせろと願う、そういうエゴがあることが普通だ。誰もが、多少なりとも「エゴのある人」とゲームをすることを自然と覚悟している。しかし、何かを快適にするために「自由を制限」することは、そういうエゴをガバナンス(統治)で抑え込んでしまうことになる。

自ら砂時計を持参し、ゲーム開始前に時間制限を提案する。それをしないのは何も提案する勇気がないからそうしないのではなく、そういうエゴを抑制するガバナンスの「危うさ」を知っているからこそ、やらないのではないか。

仮に砂が落ち切る前に手番が終わらなかった人にどんなペナルティ(罰)を与えるべきかを検討する段になれば、より一層その仕組みの「危うさ」が際立つだろう。長考を不快に感じたりすること自体は決して不自然な感情ではない。しかし、長考は「長考される側にとっても」ただ罰すべき悪になるとは限らない。長考についてどういう立場の人であっても「柔軟であること」を求めていることは大概一致している。だからこそ、敢えて僕たちは無法状態(=無制限長考)を選択するのではないか。まさしく長考によって他人を罰しなくていいように。

そして、この「自由」に2つ目の「場」の要素が重なってくる。現在進行形でボードゲーム人口が増えている日本のボードゲーム界において、オープンなゲーム会に行くことは、とても一般的なことだと思う。仲のいい人とのクローズドなゲーム会もいいけど、見知らぬ人と卓を囲むワクワク感がオープンなゲーム会にはある。もしかしたら失礼な人とぶち当たってしまうかもしれないリスクを抱えつつも敢えて参加する。それは1つの願望であり、選択だ。

こう考えてみると、長考問題とは、結構いろんな人にとって無意識に「欲望されている」問題なのではないか。「長考したら、相手は不快に思うかもしれない」と心配する。そういう「心配が必要な」他人とボードゲームを遊びたい。そう思うからこそ、そういう「自由」「場」を選択している。「ゲームを楽しみたい」と思う人が「一切のリスクがない無菌室でプレイしたい」と思っているとは限らない。もちろんだからと言って、あらゆる不快さを引き受ける覚悟ができているわけではないだろう。しかし、最初からその「不快の芽」を全て摘み取ってしまう「沈黙した世界」を欲しているわけではない

そして、この「欲望される」長考問題を想像することで、長考問題は解決しない方向が決して逃げ道ではなく、むしろ進むべき道でもあると考えられる。


■誰の問題なのか

考えてみてほしい。長考問題が発生しない世界は本当に平和な世界なのか?むしろ殺伐とした世界なのではないか。「長考あるべし」という原理主義も、「長考なくすべし」という原理主義も、そのどちらにも眉をひそめてしまうのはとても普通だ。なぜならほとんどの人が「柔軟であること」「罰しなくていいこと」を求めているからだ。いかなる形であろうと「本当に」長考問題を解決してしまうと、その先にはディストピア的な世界が待っている。不快なんだから管理すればいい、という発想に対する警戒感によって、長考問題はむしろ「あっていい問題」に転換される。より実際的な話をすれば、長考問題はガバナンスによって解決するべき問題ではない、ということだ。

例えばボードゲーム会で暴力をふるう人間を入場制限する。それはガバナンスを利かすことが妥当な問題だから問題にならない。しかし、全ての問題にそうした解決を適用することが幸せにつながるとは限らない。長考問題は、まさしくそういうガバナンスを効かさないことを覚悟すること、そのことに意義がある。

例えば、各テーブル内で小さく個々に長考問題を「いなす」こと。そのことで、むしろ「自由」は守られ、エゴがぶつかり合うゲームプレイの「場」が維持できる。こうした言わば「卓上の自治」を成立させること。それは長考問題を「解決」するのではなく「いなし」ていると言える。一人ひとりが、その場その場で長考問題を「いなす」ためのコミュニケーションを模索する。あらゆる場面で効く魔法のような解決策がないということは、そういうことだし、それが多くの現場で実際なされている努力だ。

例えば、長考している人に言葉を掛けるのも1つのいなし方だが、長考にイライラしちゃてる人に言葉を掛けることも1つのいなし方かもしれない。「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではない。もちろんこれは「そうしろ」という話でなく、考え方の話としてのことだ。だから、マナーという言葉にしても、それをルールとして捉えるのか、アーツ(技術)として捉えるのか。その違いは大きく、そして深い溝がある。

最初に逃げの一手と言った十人十色説はゴールなのではなく、スタートラインだ。それは負荷を各個人が担う「卓上の自治」を要請する。そして長考問題がややもするとイヤらしい問題になりかねないのは「僕じゃない誰かによってガバナンスを効かせてくれないかな」と他人まかせになりかねない部分にあるのではないか。長考問題が「だれそれが悪い」という問題であれば、どれほど簡単だろうか。むしろ解決が原因を決めてしまう問題だからこそ難しいのだ。だからこそ「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではないのだ。解決だけを享受することはできない。

経験者が没頭し過ぎて初心者の人を置き去りにすることがないように配慮したり、逆に没頭するあまり長考しすぎてしまった他人を会話の中で許すようにしたりする。そういうことが単なる諦めではなく自分の選択だと思うことで、世界の見え方は変わる。

他人にだけ負荷や責任を求めない姿勢こそが「いなす」ことを可能にし、ニヒリズムは自らが問題を引き受ける覚悟をした時にその哀しさから解放される。

だからこそ、こう言えるのではないか。
ボードゲームにおける長考問題は(誰かによって)解決されるべき問題ではなく、(私が)引き受けるべき問題であると。

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コメント

興味深く読ませていただきました。いつも、深い考察に感心しております。
私はよく付き合いでゴルフに出かけるのですが、ボードゲームの長考に似た場面がゴルフにはあるなぁと時々思っています。
ゴルフも素振りは何回まで、とか明確には決まっていませんが、人を待たせいることは常に意識しなくてはいけません。ゴルフは紳士のスポーツであり、服装から始まって色々なことが、マナーの問題ととらえられています。
ボードゲームにそのまま当てはまるかどうかは議論があるかもしれませんが、いいスコアを出すことだけが目的ではないし、楽しく仲間と一日を過ごせればそれでいいとも言い切れない、要はバランス感覚が必要なんだろうなと思っています。
人生そうですが、白か黒かで判断できないことばかりです。それを受け入れ、バランス感覚を持つことが上手くやっていくコツなんだなと思っています。
また、今後もコラムページを楽しみにしています。

ありがとうございます。
ほんと、バランス感覚なんですよねー。まぁ、それが難しいってことだとは思うのですが……。

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