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2014年1月 5日 (日)

【コラム】なぜオープンワールドゲームは、電源を切る前にぶらぶらと散歩をするのか?

(新年一発目の記事はボードゲームと全然関係ない話です)

オープンワールドゲームとは何なのか。テレビゲームが好きなゲーマーであれば、そうしたジャンルがあることは理解しているだろうし、そうしたジャンルへの自分なりの評価というものも持っていると思う。この言葉は単にゲームの一ジャンルを表現しているだけには留まらない。様々な場所で、この「オープンワールド」という言葉自体が議論や論争の原因になっている。「何がオープンワールドなのか」「このゲームはオープンワールドと言えるのか」こうした多くの議論があることは承知で、しかし、この記事ではオープンワールドの定義に関する議論を一旦保留し、より観念的なテーマを扱いたい。それはオープンワールド自由の関係についてだ。

■1.なぜオープンワールドゲームは不自由なのか

なぜ、自由というテーマを取り上げたのか。それは様々なオープンワールドゲームに対して、常にこういう意見が散見されるからだ。

「この(オープンワールド)ゲームは、そんなに自由じゃない」

オープンワールドという言葉には、常に自由という言葉が付いて回っている。オープンワールドという言葉をWikipediaで見てみると次のように書かれている。


「広大な世界を自由に動き回って探索・攻略できる」

---Wikipedia日本語

自由に仮想世界を動きまわることができ、目的にいつ、どのようにアプローチするかをかなり自由に選ぶことができる」

---Wikipedia英語

オープンワールドの定義において、自由という概念は重要だ。実際に、ゲームニュースサイト『Game*Spark』の「あなたの考えるオープンワールドゲームの定義」という企画記事によれば、「自由に移動できるシームレスで広大な世界」という要素が、多くの人にとってオープンワールドに必要だと認識されているようだ。字義通りに解釈すれば、オープンワールドは「開かれた世界」だ。しかし世界が単に開けた、広大な世界であるだけではプレイヤーにとって意味がない。プレイヤーにとって「開かれているため」には、手足を望むままに伸ばせるような自由を体験できなければならない。

しかし、オープンワールドにおける自由への期待はすぐさま頓挫してしまう。「こんなこともできないのか」「僕はこうしたかったのに、そうさせてくれないのか」。そんな壁に、思いのほか早くぶち当たる。ゲーマーが抱く自由の期待値は常に高く、オープンワールドはそうした理想的な自由に常に敗北する。オープンワールドゲームの代表作である「GTAシリーズ」や「The Elder Scrollsシリーズ」など、この業界における最高峰と言えるオープンワールドゲームでさえその足枷からは自由でいられない。オープンワールドゲームの敗北は、自由を目標とした時点で、敗北する運命が決定づけられていたと言っても過言ではないだろう。

では、オープンワールドゲームが追い求める自由というのは、そうしたいつかは負けると分かっている自由の果てへの無謀な挑戦ということでしかないのだろうか。僕は、そうではない、と考える。つまり現在のオープンワールドゲームが確立した自由は、それとは異なる自由を実現したからこそ、これだけ興隆したのではないかと思うのだ。その自由とは一体何なのか。この記事ではそれを粗く描いてみたいと思う。


■2.ゲームの中での日常の誕生

オープンワールドゲームの代表作「GTA(Grand Theft Auto)」。このゲームはある町に住み、自動車泥棒や強盗を働きながら、ギャングとして成り上がるゲームだ。このゲームを初めてプレイした時、僕は「なんて古臭いゲームなんだ」と強く感じた。

GTAシリーズの代表作と言える「GTA3」の最初のミッションは、娼婦をある地点からある地点にまでドライブして送迎するという内容だ。銃撃もなければ、車での逃走劇もない。時間制限さえない。単に車を走らせて、A地点からB地点にまで行くだけのゲームである。まるでドラクエのお使いのようなミッションだ。しかしGTAというゲームは、基本的に全編通して、こうしたお使いをしつづけるだけのゲームなのだ。もちろん、銃火器を取り扱うこともできるし、様々な車や船や航空機に乗ることもできる。いろいろな装飾やオプションは付くが、しかし、根本的にはこうしたことの繰り返しで進む。つまりGTAというゲームの実際のゲーム部分というのは、これまで他のゲームでやってきたことの焼き直しと言ってもいい古臭い内容なのだ。(ちなみに僕はGTAシリーズの大ファンだ)

では、GTAの何が画期的だったのか。それは「ゲームの中にゲームが入っている」という構造にある。つまりレースゲームやガンアクションゲームが、GTAというゲームの中に入っているという「Games in a Game」の構造にある。中に入っている個々のゲームに新規性はない。しかし、ゲームというおもちゃ箱の中に様々なゲームが入り、統合されているという構造にこそ特徴がある。それゆえ「古臭い」という感想は、GTAというゲームの新規性とも共存することができる。

では、こうした「Games in a Game」の構造により、何が生まれたのか。それはゲームの中での日常が誕生した、ということではないだろうか。ゲームの世界というのは基本的に非日常である。戦場であったり、冒険であったり、レースであったり。ゲームというのは常に非日常を舞台とした世界で進行する。しかしこの特殊な構造の中にあるゲームを停止することで、ゲームに日常を取り戻すことが可能になった。

GTAを開発しているRockstarという会社で広報マネージャーをしていたブライアン・バグロー氏はこんなことを言っている。

「GTAは、(中略)日常生活が営まれる世界で、プレイヤーはもう一人の別の人物になれるんだ」

The roots of open-world games(gamesradar記事)

バグロー氏が語るように、GTAは日常生活が営まれる世界(a whole world going about its daily business)を実現している。GTAは(オブリビオンやFalloutも)「Games in a Game」の構造により、日常を獲得した。ミッションとミッションの狭間でプレイヤーは日常に戻る。従来のゲームは、プレイヤーをマリオのように常にゴールポストに向かうよう急かしてきた。この非日常というのは、単に緊急の事態や状況を示しているだけではない。非日常は、常に最終的な目標(ゴール)を背負わされている。悪の魔王に代表される強大な敵を倒すことで、あらゆるゲームの主人公は世界を救う必要に迫られている。しかし、日常を取り戻すことで、こうした世界を救う必要性から開放される。

オープンワールドゲームが実現した自由は、プレイヤーに手足を好き勝手に動かせるような身体的な自由を与えてくれただけではない。僕が思うに、より観念的な世界を救わなくてもいい自由を与えてくれたのが、オープンワールドゲームが切り開いた自由の新境地だ。オープンワールドが大量の(瑣末な)サブミッションに埋め尽くされるのは、表面的には色々なミッションを選択する自由だが、それは常に世界を救わなくてもいい自由と表裏一体でもあるのだ。

そして、僕が考えるオープンワールドゲームの自由の意義はもう1つある。上記の世界を救わなくてもいい自由は、ゲームの中の主人公にとっての自由である。しかしその主人公はプレイヤー自身でもある。プレイヤーにとって、その自由はどういうことを意味するのだろうか。それこそが、オープンワールドゲームが切り開いたもう1つの自由だと僕は考える。


■3.オープンワールドゲームが実現した「本当」の自由とは

日常と言う世界は、危機に瀕していない。事実として世界が危機に瀕しているかどうかに関係なく、プレイヤーが世界の危機を意識してしまっては、日常は訪れることがない。それゆえ、日常が訪れたと意識することは、ゲームの主人公が自らの役割を脱ぎ捨てることでもある。ゲームの主人公はその存在意義を自覚的に失うのが、平和な日常という空間だ。

かつてファミコン時代のRPGでは、技術的な制約から主人公が立ち寄った場所だけが画面上に表示された。宿屋に入れば、それまで見えていた街の景観は姿を消し、宿屋の中だけが画面に表示された。世界は常に主人公とともにあった。主人公のいる場所しか、世界は存在しなかった。主人公が街に入った瞬間に住人は出現し、主人公が話し始めた瞬間に武器屋は営業を開始する。主人公の行動に合わせた世界という構造に問題がなかったのは、主人公が常に非日常にあったからだ。全ては「主人公が世界を救う」という目的のために世界は存在している。

しかし、日常を取り戻したオープンワールドの世界ではそれが許されない。世界を救うことをやめた主人公の周りから世界が消失しないために、世界の住人(その他大勢)は高度なAIにより、より人間らしく、より自分勝手に、世界の重大事とは無関係に行動するよう迫られる。世界を救う目的とは無関係の住人は、こうして日常とともに生み出される。しかしゲームの中の主人公がそうした世界を救う目的とは無関係の住人を意識することはない。当然だ。主人公はその世界の中にいて、「世界を救う目的とは無関係かどうか」という視点で住人を眺めたりしないからだ。では、こうした住人を「世界を救う目的と無関係である」と意識するのは誰か。もちろん、それはそのゲームを遊ぶプレイヤー自身だ。

むしろ、プレイヤーは世界を救う目的とは無関係の住人の存在を意識することを強制される。というのも日常に戻ることで、主人公が主人公であることを止めてしまうからだ。主人公という存在は仲介役だ。プレイヤーとゲーム世界との仲介役を果たしていた主人公が存在意義を失い半透明になることで、プレイヤーは直接その世界を意識するようになる。「この街の住人は突き飛ばされると転ぶのか」「あ、警官に追われている奴がいる」「昼になるとあのキャラは畑の方に勝手に出かけるんだな」「自分の車にぶつけられて怒っている奴がいるなぁ」。オープンワールドの世界でぶらぶらと散歩する中で、こうしたことを意識するのは、絶対に主人公キャラではなく、プレイヤー自身である。主人公という存在が存在感を失い、半透明になる。次第に、主人公が死んでしまっても、主人公の存在とは全く関係なく世界は存続し続ける、という直観をプレイヤー自身が得る。ゲームの中で日常を取り戻すことで、主人公という媒介が消失し、プレイヤーの意識が前面に押し出される。

ゲームの目的を担う主人公を失い、それでいてゲームの世界をプレイヤーが直接体験している時、プレイヤーは「ゲームをプレイしつつゲームをしていない」という奇妙な状態に陥る。ゲームをすることもしないことも強制されない世界。それはまさしく、ゲームをしなくてもいい自由をプレイヤーは獲得するのではないか。

オープンワールドの中でぶらぶらと散歩をするのはなぜなのか。ぶらぶらと散歩をするのは、その多くが電源を切る前の余興であったりはしないだろうか。これは極めて自然なことなのだ。なぜなら、もうプレイヤーはその散歩をする少し前から既に(ゲームの中の)ゲームを止めて、日常を取り戻していたからだ。そしてこの時、「そのぶらぶら散歩はゲームなのか?」という問いは意味を持たない。なぜなら世界を救うことを止め、日常を取り戻すことを可能にし、ゲームをしないことを用意したのは、他ならぬそのゲーム自身だからだ。そんな奇妙な体験をオープンワールドゲームが用意し、ゲームプレイヤーはその奇妙な体験を望む。

ゲームをしたくないのに、ゲームをしたいという矛盾に満ちた欲求。こんなわがままに答えるため、まさしくゲームがゲームを否定するという奇妙さこそ、オープンワールドゲームの現代性ではないだろうか。その点において、ヘビーユーザ向けジャンルであるオープンワールドゲームは、実はライトゲーマー向けのゲームらしくないソーシャルゲームや実際にゲームを遊んでいないゲーム実況の観戦などと同じ時代性を有しているのではないかと思う。

オープンワールドゲームは、出来ることを増やすという身体的な自由を拡張しただけではなく、精神的な「ゲームをしない自由」を与えたという点において、極めて新たな自由をプレイヤーに与えたジャンルなのだ。


★参考リンク

オープンワールド(Wikipedia日本語)

Open World(Wikipedia-English)





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