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2014年3月 9日 (日)

【コラム】PS4のSHARE機能を通して見えてくるSNSで僕たちが共有しているモノ

2/22。PS4を購入した。このPS4について色々と言いたいことはあるのだけど、1つだけ。PS4の今回の目玉と言っていい機能、SHARE機能について書いてみたい。


■圧倒的に簡単なSHARE機能


このSHARE機能。一体何かと言えば、プレイしたゲーム動画のリアルタイム配信を可能にする機能だ。リアルタイムな動画配信と聞いても、ほとんどの人は「え?そんなこと私やるかな?」と思うだろう。ゲーム実況やゲーム動画配信という行為があることは知っていても、まだまだハードルは高い。自分が配信する側になるとは思っていない人も多い。それも当然だと思うが、PS4が凄いのは、従来の動画配信にあった高いハードルを一気に低くした点にある。


どのくらい簡単なのか。ネットワーク環境とUstream(もしくはTwitch)のアカウントを持っていることを前提とすると、動画配信までに掛かる手間は、ボタンをたった4回押すだけだ。SHAREボタンを1回に、(スティックを多少動かすが、)あとは○ボタンを3回押すだけ。たったこれだけで自分のPS4はインターネットの世界で生放送の状態になる。


正直に言えば、これはWiiUのミーバースへの投稿よりも手軽だ。WiiUのミーバースというのは、WiiUゲーム専用のネット掲示板のようなシステムだ。ゲームごとにコミュニティと呼ばれるカテゴリがあり、ユーザがそれぞれのゲームについて投稿を行う。しかし、そんな分かりやすいミーバースというサービスよりも、ずっとSHARE機能は簡単なのだ。そして、ミーバースよりもずっとSHARE機能は今風なSNSサービスだと感じた。今回は、その感想を核に、本記事を書いてみたいと思う。


■ソーシャルネットワークはコミュニケーションなのか?


昨今、家庭用ゲーム機市場がSNSの巨大な市場に飲み込まれて行くという話はとてもよく聞く話だ。ここ10年のゲーム業界はまさしくそのような有様だったと思う。そんな状況にあって「今はゲームの時代じゃない。コミュニケーションの時代なのだ」という分析がされてしまうのも、安易ではあるかもしれないが、あながち間違いではないだろう。


しかし果たしてSNSが満たしてくれる欲求は、本当にコミュニケーション欲求なんだろうか?そのことを改めて考えてみたい。SNSが「まともなコミュニケーションではない」と評する人も多いが、僕が言いたいのはそういうことではない。SNSでの体験は、まさにコミュニケーションとは別の体験なのではないか、ということだ。


SNSでの体験は日常的なコミュニケーションとはかなり様相が違う。facebookやTwitterやLINEでの発信は何らかの反応を常に期待しているだろうか。"フォロー"、"リツイート"、"ふぁぼ"、"いいね!"、"スタンプ"という言葉を交わさないやりとり。これらはコミュニケーションなんだろうか。僕は、これらの行為は従来のコミュニケーションとは全く別の行為なのだ、と考えている。もちろん友人とfacebookやTwitterやLINEでコメントを交わしたり、その反応を楽しむことはコミュニケーションと言える。しかし、SNSの心地よさは、そういうコミュニケーションの快感であるだけでなく、むしろ「存在感のやりとり」とでも言うべき、別の行為によるものではないか。そして、何よりPS4のSHARE機能が目指したのも、まさにこの「存在感のやりとり」ではないかと感じたのだ。


■存在感のやりとり


この「存在感のやりとり」とは何だろうか。これは、例えば、次のようなTwitterでのやりとりをイメージしている。


ゴールデンウィークなど少し長い連休最後の夜に「あー、明日からまた仕事か」と誰かが呟く。その後に同じような内容のツイートが連続してタイムラインを流れる。中には「明日から、お仕事の人お疲れ様ですw わたしは明日まで休みです」とのツイートが見られたり、「嘘だ。明日が月曜なわけないじゃないかw」と若干おどけた様なツイートが現れたりする。そんな一連のツイートを眺めながら、あなた自身は何も呟くことなくそっとアプリを閉じ、明日の出勤に向けて床に就く。


上記のような現場は果たしてコミュニケーションが成立していると言えるのだろうか。誰一人、特定の誰かを意識して話しているわけではない。まさしく呟きは独り言のようなものであり会話ではない。意味のある情報が伝達されるわけでも、お互いに共感しあうわけでもない。しかし、確かに何かが伝わっている。その何かとは、あえて言えば「わたしがいる」「だれかがいる」という存在感だ。内容に感動したり、共感したり、情報が増えたりすることが重要なのではなく、ただ、その存在感や息遣いだけが伝わる。そんなやりとり。これを「存在感のやりとり」と言うとしよう。


すると、この「存在感のやりとり」というのは、やはりコミュニケーションと全く似て非なるものだと思うのだ。言葉を用いない「ふぁぼ」や「いいね!」や「スタンプ」が会話の終わりに使われるのも当然だ。それは一方通行であることが重要なのだ。もちろん、そうした一方通行になりがちなやりとりが上手くかみ合うこともあるし、上手くいかない時もある。もう一つ重要なのは、上手くいったかどうかを誰も評価したり承認したりしなくてもいいという点にある。


僕たちが普段コミュニケーションと言っているものには、常に「正しいコミュニケーション」が想定されている。僕らにとってコミュニケーションは、ただ発話することで終わるのではなく、必ず一定の判断や評価に晒されることへの覚悟を試される。だからこそコミュニケーションは怖くもあり、楽しくもある。一方で、他人の評価から自由な「存在感のやりとり」という欲望があるとするなら、それは、覚悟を必要としない、コミュニケーションとは全く別の欲望なのではないかと思うのだ。


TwitterでTLを眺め、誰にともなく語りかけるとき、やはりそれは何かを伝えている。LINEの既読通知は、人の意思と無関係なのではなく、ある一定の意思を持って通知される。ほとんど無意識に押しているfacebookやmixiの「いいねボタン」も、ちゃんと何かを伝えようとしている。それは従来のコミュニケーションのような緊張感はないが、確かな意思を持って実行される欲望なのではないか。そして、その伝えているものが情報の内容自体ではない、ということだ。


ほとんど無意味と思えるそうした行為。そこには相手の存在感を感じ取り、また自分の存在を相手に伝えるという極めて微かなやりとりがある。そしてそれらは一方通行で、誰からも正式に評価されないし、承認もされないかもしれない。しかし、それゆえ「正しさ」に囚われることもない。内容ではなく、その内容を発している、発せられているという行為自体に価値があるやりとり。それが「存在感のやりとり」だ。


PS4のSHARE機能はそういう欲望の最先端を目指しているように思える。ただ単にゲームをする。そしてそれを誰かが見ている。知らない人が5人見ている。コメントする人もいるが、全くコメントしない人もいる。5人の視聴者がいて、いつの間にかそれが3人になり、ある時なぜか6人に増えていたりする。従来のコミュニケーションはそこにはなく、ただその時間を共有しているという人の存在感だけが通じ合う。無機質な視聴者数やコメント数だけがその存在を伝える。視聴者が0人ということも珍しくはない。


こうした「存在感のやりとり」こそ、今のSNSが実現しているやりとりの先鋭的な形の1つではないかと思う。内容が伝わる以前に、そういう内容を発信する私自身の存在が微かに伝わっていく。私自身が見せ物になり、それを閲覧する人(がいるという認識)が刺激になる。


その点、WiiUのミーバースは従来型のコミュニケーションの形に囚われてしまったように思う。私自身の存在とは別に、作品としての「投稿内容」が、サービスの核になっている。おそらくそれは「正しいコミュニケーション」を想起させる。ミーバースでよく目にする極めてキレイに描かれた手書きの投稿は、逆にわたしやあなたの存在感を伝えない。投稿内容の出来不出来が前面に出てきてしまい、「存在感のやりとり」を阻害する。


そう考えると、SNSやソーシャルゲームやゲーム実況に「なんだか馴染めない」と思う人の多くは、発信されている内容が「評価されないこと」や「作品となりえないこと」への違和感を感じているのかもしれない。しかし、かなり多くの人が「評価するもの」と「評価されないもの」との間を、むしろ楽しむように、漂っている。そうした漂流を楽しみながら、中には他人に評価される作品であることを強く目指す人もいるだろうし、一方で、小さなコミュニティの中の「存在感のやりとり」で十分な満足を感じる人もいる。もちろん、その真ん中あたりに漂う人も多い。


しかし、ふと改めて疑問に思う。明確な応答を受けたり、評価されたりしない「存在感のやりとり」。なぜ、こんな地味な行為が持続性を持って実行されるのか?


そのことを次に書いてみたい。


■微かであることの意味


「存在感のやりとり」は、本当に欲望されているのだろうか。それが「評価に値しないもの」であるならば、そもそも多くの人が好んでそれを実施する動機も薄いのではないか。単に「存在感をやりとり」をするだけならば、繁華街の雑踏の中にでも身を置いた方がよほど他人の存在を感じることができるのではないか。そんな反論もあるだろう。その点をPS4の配信機能で感じた体験を元に考えてみよう。


先日、PS4でゲーム配信をした時、とても綺麗に連続でヘッドショットが決まり、敵を打ち倒したことがあった。その際、見知らぬ人から"Great!"と一言コメントを貰った。たったそれだけのこと。おそらくほとんど意味はない。まともなコメントはそれ1つだけだった。しかし0ではない。そして、むしろここが重要ではないかと感じた。


単に雑踏の中に身を置くことと、SNSで「存在感のやりとり」をすることの違いはここにある。つまり、微かに意味が存在しているということ。そして、微かであるからこそ意味が膨張するということだ。テクノロジーが僕たちの存在の解像度を上げることで、微かな意味の発掘を可能にした。


Twitterで自分のツイートが10回リツイートされる。それはとてもとても小さな出来事で、取るに足らない話でしかない。しかしそれは10RTという確かな数字となって示される。とても些細であると分かっていても、数字には妙な迫力がある。リツイートでもフォロワー数でも何でもいいが、99が100になった瞬間、何かが達成されたような気になる。その"+1"の違いが100と110の違い以上に意味があると感じてしまう。


100万人のテレビの視聴者が101万人に増えても、それは誤差でしかない。しかし、5人の視聴者数が10人に増えたら、むしろそこに意味を見出してしまう。それだけの解像度で相手やわたしの存在が見えることで、意味を見出すことができる。普段、評価から無縁な真っ白な世界の中で、ポツッと小さな突起が差異として不意に出現する。そのわずかな"+1"の突起に僕らは各々、独自の意味を盛り込む。


ある人の発言がふと、わたしの心に引っかかる。そんな時、「この人の発言は、わたしのあの時の発言に呼応したものなのかな?」という妄想を誰も責めることはできない。「存在感のやりとり」はあらゆる評価を避けるからだ。そうして個々に意味を与えられた(妄想的なものを含めた)因果関係は時間とともに消え去るかもしれないが、相手の存在感だけは、"+1"のコメント、"+1"のフォロワー、"+1"のいいね!として、SNSの世界に残り香のように溜まっていく。こうして、僕たちは「わずかな存在感のやりとり」にさえ満足感が得られるようになっていく。


今後、PS4のSHARE機能はどうなるだろう。誰もがこの機能を使って、ゲームを楽しみ、そしてゲームを配信する世界がやってくるだろうか。いや、それはそれでとても嘘臭い。UstreamやTwitchはもちろんのこと、そもそもニコニコ動画やYoutubeでさえ「みんな」が使っているサービスというわけではない。そういうサービスを利用するのは一部の人だけだ、という見解は常に正しい。と言うよりもむしろ、SNSやソシャゲに現れるこの「ソーシャル」という概念は、まさしくこの「みんな」を解体して再構築するところから始まったのではないかと思う。


小学生のころ、「みんなが買っているから」とおもちゃをねだった人もいるだろう。親たちは「みんなって誰よ?」と反論することで、そうした議論を終わらせてきた。かつて「みんな」という存在は確かに曖昧だった。しかし、いまやその「みんな」という存在を、小さいながらも圧倒的な具体性を持って示せる時代になったのかもしれない。存在の解像度の向上により、大人の鑑賞に堪えうる「みんな」が形成されるようになった。


PS4のSHARE機能はまさにそういう小さな「ソーシャル(みんな)」の成立とともにある機能ではないかと思っている。

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