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2014年7月

2014年7月21日 (月)

【ボードゲームレビュー】ゴーストップ ★★★☆

Go_stop_01

評価:★★★☆[3/4](6人プレイの評価です)

プレイ人数:2~6人

プレイ時間:10分


最高のバッティングゲーム。


簡単なゲームの流れ


  • ①各自手札に5枚のGOカードと1枚のSTOPカードを持つ。
  • ②山札から一枚得点カードめくる。得点カードには1~10の数字が書かれている。その得点カードを欲しい人はSTOPカード、要らない人はGOカードを裏にして得点カードの隣に置く。
  • ③山札から5枚分得点カードをめくり、それぞれのカードに対してGOかSTOPのカードをみんなが置いていく。5枚分同じことを繰り返したら、順にみんなが置いたカードを公開していく。
  • ④公開して、ある得点カードに対して1人だけがSTOPカードを置いていたら、その人はその得点カードを獲得できる。2人以上いると獲得できない。
  • ⑤もっとも大きな数字のカードを獲得できた人がポイントを獲得。3ポイント最初に獲得した人が勝ち。

Go_stop_02



ゲームの総評

アナログゲームにおけるバッティングというシステムは、ちょっとそれ自体が楽しい仕組みだ。「あ、かぶった!」となった瞬間にコミュニケーションが生まれる。相手だってバッティングしたくてバッティングしているわけではない。お互いにそれはよく分かっている。だから楽しく文句を言い合うことができる。対立しつつも、お互い悪い印象をあまり持たないで済む。そういう意味で、バッティングはゲーム的な仕組みというよりも、コミュニケーションを促す仕組みとして優秀であるように思っている。


そんなわけで、このゴーストップ(Go Stop)というゲームがバッティングゲームだと聞いたときに、逆にゲームとして面白いものなんだろうかと、最初は少し警戒をした。しかし、結局買うに至ったのは、このゲームの作者への信頼感と新しくなったカードデザインが純粋に好みだったからだ。


はたして、ゴーストップは僕の期待を上回る面白さだった。すばらしかった。メカニクス自体は異なるが、感覚としてはウントチュースの持つシンプルさとスピード感にゴーストップは少し似ている気がする。


自分の持つカードは6枚。そのうち一枚だけSTOPカードがある。STOPカードを使ってしまうと、あとはGOと書かれたカードしか残っていない。つまりひとたびSTOPカードを出してしまうと、後は、ただひたすら同じGOカードをロボットのように出すしかない。選択らしい選択を行えないことになる。


しかし、こういう選択肢が何もない状態になっても、ゲーム自体は見事に継続している。この部分が僕にはとても感動的だった。意味のある選択をしていないのに、ちゃんとゲームに参加しているし、ちゃんとゲームが進行している。なんでこんな不思議なことが起こるのかと唸ってしまう。つくづくすごい。


派手さはない。しかし確かに面白い。このゲームはとにかく多くの人に一度触れて欲しい。惚れるメカニクスのゲームだと思う。ルールはこちらに公開されている。ピンと来た方はGOだ。



評価★★★☆とした理由……楽しかった。3人でやっても結構楽しかった。2005年に最初に出ているゲームであるし、知っている人はよく知っているゲームなのだろうけど、もっともっと普及してもいいんじゃないかと思った。今年のゲームマーケット春の一番の収穫だった。

2014年7月13日 (日)

【ボードゲームレビュー】ビッグシティ ★★★☆

Big_city_01

評価:★★★☆[3/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:2~5人

プレイ時間:60分


シムシティ系の傑作。


簡単なゲームの流れ


  • ①4×5のマス目のあるボードが5枚ある。この5枚を組み合わせて1つの街を作る。
  • ②各自が持つ数字カードは、マス目の数字に対応する。同じ数字のカードを出せば、その数字の土地に建物を建設できる。
  • ③カードの中には公園や工場など特殊な建物を任意の場所に建てられるカードもある。
  • ④建物の種類、立地、隣接した建物に応じて、建設時に得点を獲得できる。
  • ⑤建物を建てたり、カードを獲得するなどのアクションを全ての人ができなくなったらゲーム終了。最も得点の多い人が勝ち。

Big_city_02


ゲームの総評


めちゃ面白い。これはびっくりした。ビッグシティというタイトルは以前から聞いていた。住宅やオフィスビルなど、建築物のコマが特徴的だなとは思っていた。しかし、その程度の感想しか抱いていなかった。あー、よくある街建設ゲームね、と。


偶然プレイする機会に恵まれたわけだが、これが抜群に面白かった。何が面白いのか。最初は、ただ広く、なんの起伏も感じられない街。しかしそんな平坦な町並みの各区画に、自然と差異が生まれてくる。ここはオフィス街。ここは住宅街。街の顔が自然と特徴付けられる。そのうち、ここは高級住宅街、ここはビジネスの中心地、ここは住みづらい工場地帯で土地の値段は安そうだな、なんて価値付けがされていく。さっきまで何もないただの平地だった場所が、形として様々な様相を見せるだけでなく、価値的なばらつきも帯びるようになる。単なる土地でしかないものが「不動産の魔力」を帯びるようになる。


当然、ゲームであるので勝つためにプレイしているわけだが、プレイしているうちに勝ちたい気持ちとは別の欲望の存在に気が付く。「ここに住宅を建てたい!」「ここに映画館を建てたい!」「ここに百貨店を建てたい!」という素直で素朴な欲望に気づく。人間の基本的な欲求に「建築欲」なんてものあるのではないかと思ってしまうほどだ。ただ建てることが楽しい。勝負の行方も大事だが、自分の都市計画がうまく進んで行く時の喜びもまた掛け替えのない楽しさになる。


とはいえ、このゲームだけが持つ固有の魅力がそれほどあるわけではない。得点計算も比較的シンプルだがサマリシートは必要だし、ルールやメカニクスが特筆すべきほど美しいわけでもない。カードを集めて土地を確保するか、カードを消費して早めに建築物を建てて得点を稼ぐか。戦略的な思考がモノを言う幅は結構小さい感じもするのだけど、本能に訴えかけるような魅力がゲーム進行をぐいぐいと駆動していく感じがある。ルールのシンプルさや分かりやすさなど、丁寧なゲームとしての作りが、プレイヤーが満たしたい欲求を全然妨げていないのが素晴らしい。


ビッグシティはシティ・ビルダー(Suburbia)や街コロと違って、各プレイヤーが自分だけの街を作るわけではない。1つの大きな街をプレイヤー全員で作る。このゲームの魅力はこの「1つの街」「みんなの街」であることに集約されているように思う。カルカソンヌのようにプレイヤー全員で一つの大きな街を共有する。まさにビッグシティ。みんなの意識が1つの場所に集中するため、ソロプレイ感がなく、みんなでワイワイする楽しみが自然と味わえる。これぞボードゲームの醍醐味と素直に思う。


ビッグシティは包容力のあるゲームだ。再版を強く望みたい。



評価★★★☆とした理由……結構、無骨な作品で、バランスがなぜこんなにもちゃんと取れているのか、不思議なほど。ミニチュアを与えられて、それを自由にがちゃがちゃと組み合わせる楽しさが素朴に届いてくる。しかもゲームとしてもそれなりにバランスが良く面白い。実に贅沢な作品。正直、ちょっと欲しい。再販しても、これ売れるでしょう、マジで。

2014年7月 5日 (土)

【コラム】なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。

ボードゲームを遊ぶ際の仲良くやるための方法や手引きを示すわけではないです。ゲームとは、むしろそういうものではないか?ということについて、主に書こうと思います。




ボードゲームをはじめ多くのアナログゲームでは、ガチ勢とエンジョイ勢の対立というテーマが話題になることがある。この問題は、ボードゲームに限らないのかもしれない。インターネットを通じたマルチ対戦のビデオゲームにおいても同様の問題は発生するだろう。およそ人と人が交流する時には付いてまわる問題であり、あらゆる娯楽や趣味の世界においても取り沙汰されてきた問題のように思う。


このコラムでは、ゲームという世界の中に限り、この対立する両者は、むしろ既に分かり合う糸口に立っているのではないか、ということを示したいと思う。それはまさにゲームというものの特徴が、その対立を包み込んでしまうのではないか、ということだ。そんなわけはないとの反論もあるだろう。そんな妄想的で、お花畑的な話はないと。事実、様々な場所で「ガチ勢とエンジョイ勢の対立」は具体的な形となって問題化している。実際、喧嘩になったり、嫌な思いを経験した人もいると思う。僕自身もそういう経験はある。しかし、あえて、この夢想的な結論について可能性を示してみたいと思う。


では、この議論をするにあたって、ゲームとは何か、ということについて書かれたある論文を参照したい。それは次の論文だ。


『ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る』


この論文は、2003年にイェスパー・ユール(ジェスパー・ジュール)氏(Jesper Juul)により発表されたものだ。イェスパー・ユール氏はデンマークの著名なゲーム研究家だ。幸いなことに、これは日本語に翻訳されている(翻訳されたhallyさん、本当にありがとうございます)。既に書かれてから10年以上経った文章ではあるが、とても面白かった。本コラムでは、基本的にこの論文を参照しつつ話を進めたいと思う。


この論文は、過去に論じられた7つのゲーム定義(ホイジンガやカイヨワやクロフォードなど)を参照しつつ、ユール氏がゲームの特徴と言えるものを6つに整理して再提示している。彼が挙げるゲームの特徴とは、以下に挙げる6つである。


1.ルール
2.可変かつ数値化可能な結果
3.結果に対する価値の付与
4.プレイヤの努力
5.プレイヤと結果の繋がり
6.交渉可能な結果


ユール氏が掲げる上記6つのゲームの特徴のうち、1~5までは比較的納得しやすいく、理解しやすいのではないかと思う。ルールや結果や努力など、どの特徴についても、「確かにそれらはゲームの特徴っぽいな」と直感的に理解できるだろう(詳しくは当該論文を参照いただきたい)。しかし6番目の「交渉可能な結果」というのはどうだろう。その名前を見ただけでは何を言いたいのか少し分かりづらいのではないだろうか(ちなみに英語では"negotiable consequences"である※1)。


実はこのコラムで主に取り上げたいのは、まさしく、この少し分かりづらい特徴の「交渉可能な結果」である。まずは、この特徴について、説明するところからはじめてみよう。あくまで僕なりの理解であるので、色々と間違いがあるかもしれない。気付いた方は、よければご指摘いただけるとありがたい。


この特徴は、まず論文内で次のように説明されている。


『現実世界への影響を任意に割り当てることができるという事実は、ゲームを特徴づけるものである。実際の割り当てはプレイごと、場所ごと、対戦相手ごとに取り決められうる。』


この説明にあるように「交渉可能(negotiable)」とはつまり固定的であらかじめ決まっているものではなく「任意である(optional)」ということだ。任意な結果とはどういうことか。これはゲームで金やモノを賭けの対象にするケースを考えると分かりやすい。例えば、トランプの大富豪をやるのに、何も賭けずに単にその場限りの娯楽として楽しむ場合もあれば、それなりの金額を賭けての真剣勝負をすることもあるだろう。テニスの試合を趣味として楽しむこともあれば、より大きな大会への出場権をかけた選考会としてプレイすることもある。ゲームは、そのゲーム結果を現実世界の帰結として任意に割り当てることができる。そしてそういう任意に割り当てられる特徴を持つものこそをゲームの特徴だとユール氏は語るのである。


これは、逆に「交渉可能な結果」という特徴を有さない行為を考えると更に理解が深まる。例えばユール氏は「貴族的な戦争(noble war)はゲームではない」という例を挙げる。貴族的な戦争とは、例えばジュネーブ条約を遵守するような形で行われる一定のルールに従った戦争を指す。これは1~5に挙げるゲームの他の特徴を十分に満たしている。しかし、実際に、戦争をゲームだと語ることに抵抗を感じる人は多いだろう。それは、戦争というものが、ゲームの6つ目の特徴である「交渉可能な結果」を欠いているからだ。つまり戦争というのは決して任意に現実世界の結果へと結びつけることはできない。戦争は、時に非情で、決定的で、のっぴきならない結果(死、傷害など)へと結び付けざるを得ない。それゆえ戦争はゲームとは言いがたいのだ。


このユール氏の説明がとても素晴らしいのは、僕たちが戦争をゲームのように考えてしまいがちな理由と、そして、それへの違和感を同時に説明できるからだ。僕たちが戦争をゲームのように考えてしまいがちなのは、1~5のゲームの特徴を有しているからに他ならないし、そしてまさに戦争をゲームと捉える違和感が、6つ目の特徴を排除していることによるものだという説明を施すことができる。


では、どのようなゲーム的行為が「交渉可能な結果」を持つのだろうか。それを、ユール氏は次のように語る。


『ゲームの結果を対価交渉可能なものにする唯一の方法は、ゲームのプレイを圧倒的に無害なものにすることであり、そのために必要な運用と手段を用意することである。』


ゲームプレイが無害なものになることで、それはゲームになる。このことは次のような例を考えると分かりやすいだろう。剣の稽古というのは、かつて木刀を用いていたと言われている。木刀は日本刀のように斬れないとはいえ、あんなものを振り回していては、大怪我や死亡事故に至ることもあっただろう。それは交渉の余地のない決定的な結果となる。しかし、竹刀が発明され、剣道の防具が発達することで、その行為は圧倒的に無害になっていった。こういう流れの中で剣道はようやくゲームとしての特徴を帯びたと言えるだろう。


※1……リンク先の翻訳記事では"negotiable"に「対価交渉の可能な」との訳語が当てられている。この訳語はおそらく現実世界(real-life)の事物との交換可能な関係を強調するため用いられているのだろうと思う。今回論文内の文章を引用する際は、翻訳記事をそのまま引用した。しかし、"negotiable consequences"という単語を単独で取り上げる際は、「対価」という言葉が様々なニュアンスを含んでしまうことを考慮して、素朴に「交渉可能な」との訳語を当てた。


■ガチとは何か?


ここまで記したユール氏の説明を見ると、確かにゲームというのは任意に現実世界の結果へと結びつけることができるものだということが理解いただけるのではないかと思う。これを本コラムの冒頭で示したガチ勢・エンジョイ勢の話に展開してみよう。


ボードゲームの世界でのガチ・エンジョイの話題において、とりわけ多くの人にとって印象が悪いのが、ガチ勢による初心者へのいやがらせ行為だ。「早くやれよ」とか「そんな手はありえないだろう」などの手厳しいコメントにとどまらず、時には人格を傷つけるような言葉の暴力が問題になる。これを先ほどの「交渉可能な結果」という考え方を使って言い換えるなら、相手の人格を攻撃したり、相手を極度に不快にさせる行為は、現実世界への影響として、重大な結果を与えてしまうことだと言える。つまり、それは喧嘩になり、殺し合いになり、戦争になってしまう。まさにゲームではなくなってしまうということだ。


では、こうした不幸を避けるために、ゲームというのは(結果も含め)現実世界に影響を与え「ない」無害であるべきものであろうか。僕はこうしたアンチパターン的な発想が実は話をややこしくしていると考える。確かにゲームプレイが無害であることは、「交渉可能な結果」という特徴を持つためには重要である。しかし、僕はユール氏がゲームを「無害なもの」ではなく「現実への割り当てが任意なもの」としたことに大きな意義があると考える。なぜこんな回りくどい言い方をするのか。それはこういう言い方のほうが、ゲームというものを説明するに当たって、言葉としての解像度が高いからではないかと思うのだ。


逆に考えてみてほしい。僕たちが時に陥るのは、ゲームは楽しみのためのものであり、所詮、気晴らしでしかない、現実的には無駄なものでしかないというニヒリズムではないか。実はこういうニヒリズムに対しても、「交渉可能な結果」というゲームの特徴は突き刺さってくると考えられないだろうか。


■エンジョイとは何か?


具体的に考えてみよう。僕たちは、悪しきガチ勢がいることを想像できるように、悪しきエンジョイ勢を想像することもできる。ゲームの結果を軽く捉えることができる人は、見ようによっては、とても冷静にゲームを遊んでいる大人な態度にも見える。その一方で、勝ち負けに拘らないことが、時にルールの軽視や一生懸命になる人への嘲笑やゲームへの破壊につながることもある。それがたった1回のゲームの範疇を超えてしまったら、結局のところ、ゲームの現実的な影響への固定化につながるのではないか。例えばゲームの勝敗結果が恒常的に「無価値化される」ことによって、現実世界への影響の「任意性」が、ガチの場合とは逆の意味で失われてしまう。勝利を目指さないプレイヤーが時にゲームを破壊してしまうことがあるように、そのことは単に冷笑的であるだけでなく、そうした「現実への割り当ての任意性」をも脅かしていると考えられるのではないか。


もちろん「わたしはそんな態度は採らない!」と反論したくなる人も多いだろう。しかし、ここで問題にしているのは、「お前はエンジョイ勢だ」とか「ガチ勢は怖い」というレッテル貼りではない。むしろ、ゲームがゲームであることにとって重要なのは、様々な現実世界への影響をまさに「任意に」決定できるための合意形成の必要性。そうした合意形成のプロセスを経なければ、理想的なゲームをプレイできないという点にある、ということだ。これはガチに遊ぶときにだけ必要になるのではない。ただ楽しく遊ぶ(エンジョイ)ためにも、ガチにならないための合意形成が実は必要なのだ。


誰もが本当は分かっている。エンジョイが悪い、ガチが悪い、ということでは「ない」ということを。その前提となるゲームへの参加のプロセスの問題だということを。それはまさにゲームをゲームたらしめる特徴に関わるものではないだろうか。※2


※2……この特徴は、実際のところ6つめの「交渉可能な結果」だけでなく、5つめの特徴である「プレイヤーと結果のつながり」に関係するものであると思う。


■合意形成プロセス


ゲームは楽しければいいという前提も、ゲームは自分達の実力を余すところなくぶつけ合うべきだという前提も、それ自体が誤りではない。それらを「正解」として固定化することこそが、ゲームをゲームでなくする始まりなのかもしれない。ゲームには必ず勝敗がある。それは決して無害ではありえない。それを適切に、その場その場に応じて受け入れるためにも、合意形成という非常に人間くさいシステムを通さなければならない。それは一朝一夕に答えが出るものではないし、ある特定の手続きに沿えば、それだけで答えの出てくるものではない。ユール氏はそれを水質テスト(a testing of the waters)のようだと語っている。一つ一つ試していくしかない。


合意形成プロセスは、確かにすぐにでもゲームをしたい人間には煩わしい手続きに思える。しかしそのプロセスは、ゲームがゲームであるためにはそもそも必要な手続きなのだ。よく見知ったクローズドな友達同士の集団であれば、それを省くこともできるだろう。しかし、そうでないオープンな集団で遊ぶ時には、その当たり前のプロセスの必要性がもう一度浮かび上がってきてしまう。当たり前のことに思えるからこそ、それはとても難しいことでもある。しかし、その難問のスタートラインにゲームプレイヤーは立てている。なぜなら僕たちは、殴りあいでも殺し合いでも茶番でもなく、ゲームがしたくてそこに集うからだ。


最初に、僕は、エンジョイ勢とガチ勢がわかり合うことは、「お花畑的」だと自嘲的に語った。しかしこうも思うのだ。『エンジョイ勢やガチ勢というのは、他人が端的にそうであるわけではなく、自分という1個の人格の中にもエンジョイ勢とガチ勢とが同居しているのではないか』と。ほとんどの人が、ある1つのゲームをエンジョイ勢として楽しんだこともあるだろう。また、ガチ勢として熱中したこともあるだろう。賭けの対象にしたことも、パーティの余興としたこともあるだろう。子どもの時に夢中になったゲームに、大人になった今も(別の形かもしれないが)楽しめてしまうことがある。それらは、現実世界への影響において伸縮性のあるものとして、その愛すべきゲームがゲームであり続けてきたからではないか。わたしがガチ勢であり、同時にエンジョイ勢である可能性。それを同時に許容するものこそゲームではないのか。


僕たちが一つのボードゲームを囲む時、それはゴールにいるのではなく、分かりあうため、交渉するための端緒として、同じゲーム卓に向かい合うのだろう。そして、交渉すべき相手は他人だけではなく、自分でもあるのかもしれない。

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