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2014年8月

2014年8月30日 (土)

【海外記事翻訳】ドミニオンは複雑すぎた?!審査員長が語るドイツ年間ゲーム大賞の内幕

本記事は、こちらのインタビュー記事"An interview with Tom Felber, jury chairman of the Spiel des Jahres award"を訳したものです。現在もボードゲーム界において、非常に大きな影響力を持つSDJ(ドイツ年間ゲーム大賞)。その審査員長であるトム・フェルバー氏(Tom Felber)へのインタビュアー記事になります。このインタビューは、『シカゴ トイ&ゲームグループ』という団体が自らのイベントに特別ゲストとしてトム氏を招くにあたり行ったものです。ちなみに、オリジナル記事は2014年4月17日にアップされました。

何か、翻訳に誤りなどありましたら、ご指摘いただければ幸いです。以下、記事本文になります。



――ドイツ年間ゲーム大賞は、ドイツ(語圏)のボードゲーム批評家が審査員となり、ドイツ国内で発売されたゲームに対して授与される賞ですが、いまや世界中のボードゲームマニア(hobbyists)の注目を集める存在となっています。この賞がこれほど広く受け入れられてきたのは、どのような理由や経緯によるものだと思われますか?


奇妙かもしれないけど、1つには、マニア(hobbyists)向けにはしなかったからだろうね。この賞のターゲットは、すべての人なんだ。たいていの人はゲームを遊ぶのが好きだし、人と一緒に楽しむのが好きだ。だけど、そういう人でもたいていは、駄目なゲーム(bad games)で嫌な思いをした経験がある。ボードゲーム文化の敵は、コンピュータゲームじゃない。駄目なボードゲームなんだ。お店にはものすごい数のゲームが並んでるけれど、審査員は公正な審査を心がけているよ。大事なのは、独立性、信頼性、そして情熱だね。僕たちは、ゲーム業界外部の人間だ。良いゲームに関心があるだけで、特定の会社や人に遠慮する必要はないからね。今も審査員のメンバーは、この仕事でお金をもらったりはしていないよ。


――ドイツ年間ゲーム大賞のプロモーションのため、訪米されているわけですが、あなたにとって、この訪米を成功させる目標は何でしょうか。


別にドイツ年間ゲーム大賞のプロモーションツアーってわけじゃないんだよ。『ドイツ年間ゲーム大賞』は僕にとって、ビジネスじゃないんだ。プライベートな旅行として、ナイアガラの滝で「Gathering of Friends(※1)」に参加して、あとはカリフォルニアの友達に会いに行く。今回、個人的な旅行には違いないけれど、アメリカのおもちゃ・ゲーム業界の人にドイツ年間ゲーム大賞の背景を説明するいい機会ではあったね。この賞が、アメリカでも注目されるようになって、いろいろな要望をもらうようになってきたんだけど、そういうのを見てると、結構、間違った情報や誤解があるんだよね。だからアメリカでも、より多くの人がドイツ年間ゲーム大賞って実際どういうもので、審査員が何をしているのかを知ってもらえれば、この旅行は「成功」と言えるだろうね。


※1……アラン・ムーン氏が毎年主催しているボードゲームを遊ぶ招待制のイベント。ナイアガラの滝近くで開催されている。


――わたしたちの交流会(※2)以外では、旅行中、どのような時間の使い方をするご予定ですか?

個人的な観光とか、昔の友達とゲームを遊んだりするよ。


※2……「シカゴ トイ&ゲームグループ」が主催するイベント。トム氏は特別ゲストとして招待された。


――ドイツ年間ゲーム大賞のノミネートで紛糾したものを、何か1つ教えてもらえますか?


いや、すまない。できないんだ。審査中の出来事は、審査の中だけに留めておくことにしてる。


けど、一般的な話として、審査で議論になるのは、個々のゲームのテーマに対して、暴力性を懸念する声によるものが多いね。侵略、戦争、暴力、そういうテーマがそもそもゲームを楽しめるテーマなのか、適切なのかという話だね。


――2011年にドイツ年間ゲーム大賞にエキスパート部門(KENNERSPIEL)が設けられました。市場が広がったら、また新たな部門が追加されるようなことがあると思いますか?もしそうであれば、将来的に、どのような部門の追加があり得るでしょうか?


いや、3部門で十分だと思うよ。賞は少なければ少ないほど力を持つんだ。われわれとしては、できるだけ多くの新聞や雑誌に取り上げられたいわけだけど、賞の種類や受賞作品の数が多すぎると、記事を書くジャーナリストにとっては複雑すぎておもしろみがなくなるんだ。こちらもジャーナリストだから、ニュース記事ではポイントをしぼらなきゃいけないことはよくわかってるんだよ。同時に5部門も紹介したらポイントがぼやけてしまう。繰り返しだけど、「ドイツ年間ゲーム大賞」は業界やマニアのための賞じゃない。ゲームを楽しむ、すべての人のための賞なんだ。


1つ言わせてもらえば、エキスパート部門を創設した主な理由の1つは、「ドイツ年間ゲーム大賞」が複雑になりすぎるのを防ぐためなんだ。僕にとって、「エキスパート部門」の黒のポーン(※3)は、赤のポーンの「ボディガード」のようなものさ。審査員はみんな、自分たちも熱心なボードゲーマーで、革新的なボードゲームや複雑なボードゲームを愛している。だけど、そういうゲームって大体の場合、素晴らしいけど大多数の人にとっては重すぎるんだ。「エキスパート部門」が導入される前は、素晴らしいゲームだけど一般の人にとっては複雑すぎる、そんなゲームが大賞に選ばれる危険性が常にあった。「ドミニオン」がまさにそれだ。「エキスパート部門」は、この先、そういうことが起こらないように導入されたんだよ。


※3……ドイツ年間ゲーム大賞のトレードマークはチェスのポーンを模している。赤のポーンはドイツ年間ゲーム大賞。黒はエキスパートゲーム大賞のマークとなっている。ポーンのイメージ画像はコチラ


――ドイツ年間ゲーム大賞としてカルカソンヌが選ばれた2001年からHANABIが受賞した2013年まで、振り返ってみてドイツ年間ゲーム大賞のノミネート作品はどのように変化しているでしょうか。


ノミネート作品は、その年ごとに、あらゆる面で違うよ。傾向のようなものはない。それぞれの年で、市場にどんなゲームが売られているのかによるからね。強い年もあれば、弱い年もある。ノミネートされてなかったゲームも、別の年に発売されてたら、すんなり「ドイツ年間ゲーム大賞」に選ばれることもあるかもね。もちろん、「HANABI」の受賞は、箱のサイズからして、非常に画期的な出来事になった。10年前ならありえないね。小さなゲームが受賞できるようになった、これが一番はっきりした変化かな。


――ドイツ年間ゲーム大賞の審査員はどのようにして選ばれるのでしょう。あなた自身はどのようにして審査員長になったのですか?


民主的な投票の結果だよ。ドイツでも、業界の関係者以外で定期的にボードゲームをレビューして回れるような人間は多くない。だけど、時々、新しい批評家たちが現れて有名になることがある。そうしたら、そういった人たちを審査員に推薦して、そこから現在の審査員が民主的なプロセスを通して選出するんだ。審査委員長も、推薦と投票によって決まるんだ。


――他のおもちゃ・ゲーム業界の賞で、あなたが認めているとかリスペクトしている賞というのはありますか?


僕は「ドイツ年間ゲーム大賞」を「業界賞」だとは思ってない。消費者の方を向いた「批評家賞」なんだよ。僕にとってこれは大きな違いだし、この賞が受け入れられている大きな理由の1つだよね。過去に、他の賞から一緒にやろうと言われたこともあったけど、実現しなかった。なぜなら、多くの場合、僕たちとは独立性に対する考え方や賞に対する哲学が違ったんだよね。僕も他の賞やそれぞれのやり方は尊重してるよ。だけど、正直言って、それって僕らの活動や審議には関係ないことだよ。審議に関係するのは、僕ら自身のゲームプレイだけなんだ。


――これまでドイツ年間ゲーム大賞の審査にノミネートされなかったり、推薦リスト入りしなかったゲームで、個人的に気に入っているゲームはありますか?


「キング・オブ・トーキョー」


――子供の頃のお気に入りのおもちゃやゲームはなんでしたか。


小さな紙に自分でカウボーイやインディアンのキャラクターを描いてね、名前を付けて、切り取るのさ。で、その人形でドラマティックな物語をやる、っていう遊びをしてたね。


――普段の日は何をしているんですか。


僕の生活にいわゆる「普段の日」というのはないよ。僕はジャーナリストだ。犯罪や裁判のレポートなんかの仕事が多いんだけど、旅行や車やゲームについて書くこともあるね。だから「普段の日」って言おうとすると、少なくとも5種類は「普段の日」があるね。1つめは、裁判の傍聴席座っている日。2つめは、情報収集のため人と話している日。3つめは、旅行中。4つめは、ゲームをする日、5つめは、ドライブとか車の試乗をする日。1年365日のうち、家で夜寝るのは150日以下じゃないかな。


――どのような場所で育ち、それは今のあなたにどのような影響を与えましたか?


僕は、カトリックの労働者階級の家庭で育ったんだ。スイスのチューリッヒに近い小さな村(山奥じゃないけどね)で、4人の姉妹と3人の兄弟と一緒だった。そうした環境で、人生で一番大切なことは人間関係だと学んだ。そして、無神論者になったんだ。


――これまで犯した失敗で1つあげるとしたら何ですか。そこから何を学びましたか?


毎日のように失敗ばかりしているよ。例えば、たくさん駄目なゲームで遊んでる。けど、それはやめられないんだ。だって、審査員としてはそういうゲームもやらなくちゃいけないしね。しかもいつも期待に満ちているんだ。そんなだから、何も学んでなさそうでもあるね。


――毎日何を読んでいますか。そして、それはなぜですか?


物凄くたくさんのルールブックを読むよ。あと少なくとも5紙の新聞を読む。それが仕事だからね。


――普段、あなたの役に立っているお気に入りのガジェットやアプリやソフトは何ですか?


ガジェットやアプリやソフトにはあんまり興味ないんだよね。僕はなるべくリアルな体験を心がけている。電子手帳さえ持ってない。いまだに、全ての予定は手書きで書いているんだ。びっくりするかもしれないけど、僕のケータイには一つもゲームアプリは入ってないんだ。


――ここ最近でとても笑ったのはいつですか。それは何ですか?


毎日声を出して笑ってるよ。時には自分に対して笑うこともあるしね。裁判のレポートなんかをやっていると、しょっちゅう死とか運命の厳しさ、悲しみに包まれることになる。こうした体験は普段と異なる大切な感情や人生の美しいところをむしろ楽しむようにすべきだと教えてくれるんだ。


――あなたに発想などで影響を与えているものは何ですか?


人だね。自分の頭で考える人。当たり前だからとか、いつも繰り返しているからとかの理由で愚かなことを信じない人だね。


(インタビュー記事終わり)


■最後に一言

このインタビューを読み、僕自身は審査員トム氏の「素朴さ」を強く感じた。電子手帳を持たず、ケータイでゲームをすることもなく、複雑なゲームからSDJを守るのだと語る彼の姿勢に、若干の違和感を感じた人も多いかもしれない。しかしこうした姿勢こそが、SDJという賞の特徴付けを行っていることもまた確かだろう。


ちなみに、こちらの原文記事にコメントが寄せられている。コメントの主はBruno Faidutti氏(『あやつり人形』の作者であるフェデュッティ氏本人だろうか)。コメント内容を粗く要約すると次のようなものである。


『ボードゲーム文化の敵は駄目なゲームでなく、むしろ良きゲームだ。市場に出回るほとんどのゲームは良いゲームであり、むしろ大量に良作があふれている事の方が問題である。かつてのようにベストなゲームを選ぶことは難しく、大量の良いゲームの中から特定のスタイルを選んでいるだけだ。』


なかなか面白いコメントだ。興味のある方は是非原文にも目を通していただければと思う。



■更新履歴


翻訳について、すばらしいご指摘をいくつかいただいたので、その指摘を元に以下の文言を修正しました。ちょっと分かりにくいですが、修正前と修正後の文言を並べるような形で記します。@EL_CO4twさんありがとうございました!また、@_kazuma0221さんもありがとうございました。

 

【2014.9.1】

(修正前)こうした新たな部門の追加は、市場の広がりに伴うものだと思いますか?

 

(修正後)市場が広がったら、また新たな部門が追加されるようなことがあると思いますか?

 


【2014.8.31】

(修正前)大事なのは、独立性、信頼性、批評への熱意だね。

 

(修正後)大事なのは、独立性、信頼性、そして情熱だね。

 

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(修正前)侵略、戦争、暴力、そういうテーマについて、それがゲームを楽しむ上で必要なのか、適切なのかという話だね。

 

(修正後)侵略、戦争、暴力、そういうテーマがそもそもゲームを楽しめるテーマなのか、適切なのかという話だね。

 

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(修正前)これだけは言わせて欲しいんだけど、エキスパート部門を創設した主な理由は、~

 

(修正後)1つ言わせてもらえば、エキスパート部門を創設した主な理由の1つは、~

 

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(修正前)唯一関係あるとすれば、僕らも同じゲームをプレイするってことだけだろうね。

 

(修正後)審議に関係するのは、僕ら自身のゲームプレイだけなんだ。

 

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(修正前)笑うことは、それらとは異なる大切な感情を与えてくれるし、人生の美しい面を楽しむことを教えてくれるんだ。

 

(修正後)こうした体験は普段と異なる大切な感情や人生の美しいところをむしろ楽しむようにすべきだと教えてくれるんだ。

 

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(修正前)人だね。自分の頭で考える人。そして愚かなことを信じない人だ。愚かなことというのは、当たり前になってしまって、ただ繰り返されてきたことでしかないからね。

 

(修正後)人だね。自分の頭で考える人。当たり前だからとか、いつも繰り返しているからとかの理由で愚かなことを信じない人だね。

2014年8月17日 (日)

【ボードゲームレビュー】漢コレ! ★★☆☆

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評価:★★☆☆[2/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:4~8人

プレイ時間:30分


さすがの安定感。


簡単なゲームの流れ


  • ①漢字のツクリのカードを各プレイヤーは手札として持つ。
  • ②漢字のヘンのカードを共通場に何枚か置く。
  • ③自分の手札と共通場のカードを見比べ、何か新しい漢字を思いついたら共通場のカードを取る。
  • ④作り上げた新しい漢字を発表する。
  • ⑤面白いと思う漢字を作った人はポイント。最もポイントを稼いだ人の勝ち。

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ゲームの総評

この名前を見たときに、不思議な気持ちになった。当然誰でも、「あー、漢コレね、漢コレ。ふんふん。なるほどね」と思うわけで、なんというか、その直球に一瞬どう反応すればいいのか悩みそうになる。とは言え、この「漢コレ!」については、おそらく多くの人が不思議と嫌なモノを感じなかったのではないだろうか。


そのまんま過ぎて、清々しい。もっとこう茶目っ気というか狙ってる感があれば(いや、あるんだけど)、そのセンスに嫌味を言うこともできるだろう。だが、「漢コレ!」は謎の男らしさで朴念と佇んでいる。「艦これブームに乗っかりやがって!」というツッコミを無効化する素朴さがある。あまりに寡黙なので、こちらも妙に真面目になってしまう。箱を見つめているうちに、堅実でステキな作品のように思えてくる。


箱の中には、これまた飾り気のない紙の板が詰め込まれている。切りっぱなしというのか、「厚紙を切って作りました感」が満点なのだが、その手を掛けていない感じが、とにかくいやらしさがない。なんか段々と悔しくなってくる。


当然この「漢」は漢字の「漢」であろうが、「おとこ」の「漢」でもあるんだなあ、とか、こうやって真面目にコメントしたりすると、一言目から恥ずかしい気持ちになる。何にせよ遊んでみると、これが意外に面白い。僕は、こういう発想系のゲームが苦手で、面白い答えが全然思い浮かばなかった。けれど、ヘンとツクリのカードを並べたり選んだりするだけで結構楽しくなってしまう。「漢字っていいものだな」なんて能天気なことを思ってしまったりする。なんかバカゲーに諭されてしまったようで、とにかく悔しい。


つまりその、限りなく同人ゲームではあるのだけれど、奇跡のような作品だとも思う。分かってやっているのに、分かっていると最後まで言わない雰囲気は、流石だ。こういう「誰もがやりそうだと思ってやらないこと」を(ある意味)最高の形でできている「漢コレ!」を見ると、「ベストフレンド」がまぐれの作品ではなかったのだと改めて思う。



評価★★☆☆とした理由……普通だ。ゲーム内容も想像の域を出ない。しかしなんか素敵なゲームだと思う。もしかしたら10年後も、こっちの「漢コレ」の方が生き残っている、なんてことさえ想像したりする。

2014年8月10日 (日)

【ボードゲームレビュー】エセ芸術家ニューヨークへ行く ★★☆☆

Ese_artist_01

評価:★★☆☆[2/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:5~10人

プレイ時間:30分


何かに似ている。


簡単なゲームの流れ


  • ①各プレイヤーは1本のペンを持つ。色はプレイヤーごとに異なる。
  • ②親はお題を決めて、そのお題を子プレイヤーに伝える。一人の子プレイヤーだけにはお題を伝えない。
  • ③子プレイヤーは一筆だけ、お題に沿って絵を描く。お題を知らない子プレイヤーはお題を知らないことをバレないように勘で描く。
  • ④1人2回線を描いたら、絵は完成。子プレイヤーは誰がお題を知らない子プレイヤーかを当てる。当てられなければ、お題を知らない子プレイヤー(=エセ芸術家)の勝ち。
  • ⑤たとえ当てられても、そのお題が何だったのか正しく答えられたらエセ芸術家の勝ちになる。

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ゲームの総評

アナログゲームには、お絵かきゲームと言えるゲームがいくつかある。こうしたお絵かきゲームでは大抵、絵が下手な人も参加できるように、そして、上手い人がただ有利にならないように工夫されている。


しかし、『エセ芸術家』は、お絵かきゲームの中でも少し変わった仕組みとなっている。お絵かきと言っても、各プレイヤーが描けるのは線一本だけ。それをたった2回描くだけで1ゲーム終わってしまう。そのため、個人のお絵かきスキルがほとんど問題にならない。他のお絵かきゲームと同じように絵が下手な人でも気兼ねなく参加できるのはもちろんだが、絵の上手い人がその力を発揮することもほぼ無い。潔いほどに絵の技量が関係しない。この点が、少し変わっている。


また、一筆ずつしか書けないというのは、一文字ずつみんなで俳句を詠んでいく『詠み人しらず』というゲームを思わせる。制約の中でみんなが1つの作品を作るが、最後にはカオスな結果が現れるという展開も似ていると言えるだろう。


タイトルにあるとおり、このゲームではプレイヤーの中に、たった一人、絵のお題を知らないエセ芸術家がいる。その「彼」はさも分かった風に線を描いているが、実際は「お題」を知らない。そのエセ芸術家を探るのがこのゲームの主な目的だ。


このゲームでは、各自が持つペンの色が違うので、誰がそれを描いたのか、後から確認できる。そして、みんなはエセ芸術家を探るため、線の一本一本の意味を考えながら鑑賞する。何より面白いのは、描かれた最終的な絵からは、作者や意味というものが失われている所だ。その絵は誰かの絵ではなく、また何かの対象物をはっきりと示そうともしていない(なぜならエセ芸術家に「何の絵」かバレてしまうと負けてしまうから)。しかし、それでもなお、完成した絵は「1つの何か」である。ゲームのテーマ的には、「お題を知らない人間=エセ芸術家」なのだが、その作品を作り上げた誰もがエセ芸術家であるように思えるし、その完成した絵は、まさにエセ芸術家の作品のように思える。


意味を伝えようと必死になっている部品(線)が集まっているにもかかわらず、その部品で構成された全体(絵)はデタラメで決して意味を伝えようとしない。最初にこのゲームをプレイしたとき、そのことをとても不思議で面白く感じた。一体これは何なんだろうか。


少し考えてみて思ったのは、「表現することには常に複数の意味がある」ということだ。表現したその「内容」に重点があるのか、それとも表現しているという「行為」に重点があるのか。「表現することの意味」の複層性を利用したゲームが『エセ芸術家』というゲームであるように思える。


日常を振り返ると、僕たちの周りにはこれに類することがいっぱいある。挨拶や儀礼的なコミュニケーションはもちろんだが、ツイッターやFacebookなどSNSの投稿もコレに似ているように思えてくる。その投稿で伝えたいことが、本当に「内容」なのか、それともそれを書いているという「行為」なのか。それは結構、書いている本人にさえ曖昧だったりする。


僕たちが料理の写真をアップして「おいしー」とSNSに書き込む時、それは単に「料理がおいしかった」という「内容」を伝えたいだけだろうか。むしろ「そうしている行為」の方が重要な場合がある。「内容としての何か」を伝えたいのではなく、「行為としての何か」を伝えたい。僕たちはネット上でも、知らず知らずのうちに、「内容」の意味を置き去りにしたまま、「行為」の意味を伝えようとしている。自分のTLやウォールは、まさに一本一本の異なる意図の線で構成された『エセ芸術家』の作品のようだ。


そんな風に考えると、『エセ芸術家』というゲームは、コミュニケーションの複雑さを一種戯画化したようなゲームであると言えるのかもしれない。例えば僕はこのゲームを遊んでいて、途中から、お題を知らないエセ芸術家の方がよっぽど純粋な心を持っているように思えてきてしまった。自分がエセではないことを示すために必死なその態度は、むしろピュアで愛嬌さえ感じさせる。一方、「お題を知っている人間」の方が、ずっと「分かっていることを鼻にかけた嫌味な奴」のようにも思えてくる。エセ芸術家という言葉の意味が倒錯する面白さがそこにはある。


『エセ芸術家』は、「伝わる」ことと「伝える」ことの不思議さを教えてくれるゲームだ。



評価★★☆☆とした理由……分かるようで分からない不思議な絵が完成するのがなんとも楽しい。最も「絵が下手な人でも参加しやすいお絵かきゲーム」が本作かもしれない。人数がそれなりに必要なこと、「お題を知らない人」の決定方法が完全に親に一任されていること、親はゲームに直接参加できないこと、という3点が個人的にはネックだと感じた。

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