【ゲーム論を読む】失敗の意味がゲームを定義する~「しかめっ面にさせるゲームは成功する」第2章を読んで~
「しかめっ面にさせるゲームは成功する(原題:The Art of Failure)」はゲームを失敗という観点から分析・考察する本だ。最後までとても楽しく読んだのだが、個人的には第2章「失敗のパラドックスと悲劇のパラドックス」が特に面白かった。本記事はこの第2章を中心に取り上げて書く。なぜ第2章を取り上げるのか。それは「単に面白かったから」というだけでなく、最初に読んだ時「よく分からないな」とも感じたからだ。書いてある内容が分からないというよりも、なぜそういう議論の展開になるのか分からない。しかし最近、原書を読んでみて「なるほど、こういうことが言いたかったのか」と思ったので、自分の理解の整理のためにも書いてみたいと思う。
まず、本記事では第2章の概略を示す。次に、僕自身がどういう部分を疑問に感じたのかを書く。そして最後に、原書を読んで最終的にどのような理解に至ったかをまとめたい。ポイントは議論の力点がどこにあるのかということだ。どの部分を重要な話として見るか。翻訳された「しかめっ面」では、それが分かりにくいのではないかと感じた。あくまで僕自身の解釈なので、違っている面などあればご指摘願いたい。
■第2章「失敗のパラドックスと悲劇のパラドックス」の概略
第2章は、「失敗のパラドックス」と「悲劇のパラドックス(苦痛を伴う芸術のパラドックス)」の2つを対比的に取り扱っている。「失敗のパラドックス」とは本書の主題である。「1.我々は一般に失敗を避ける。2.ゲームをプレイするとき、我々は失敗を経験する。3.普通は回避しようと思うような経験を味わうかもしれないのに、我々はゲームを求める。」これが失敗のパラドックスである。
「悲劇のパラドックス」も非常に構図が似ている。昔から美学・芸術哲学の分野で多くの議論がなされてきたパラドックスだ。おおまかには次のようになる。「1.人は一般に苦痛をもたらす状況を求めようとはしない。2.悲劇などの芸術は人に苦痛の感情を喚起させる。3.ある種の芸術は苦痛を伴うと知っているが、人はそれを求める」この悲劇のパラドックスへの説明をアーロン・スマッツ(Aaron Smuts)の議論を元に、筆者のユールが以下の3つのカテゴリーに整理する。
- 1.芸術は本当の苦痛をもたらさない説(Deflation説)
- 2.苦痛は対価である説(Compensation説)
- 3.人は快以外も求める説(A-Hedonism説)
それぞれの説を簡単に説明すると次のようになる。
1.芸術は本当の苦痛をもたらさない説
演劇や小説などの芸術で味わう痛みというのは、本物の苦痛とは違うという考え方だ(*1)。だからこそ人は悲劇を自ら望んで鑑賞することができる。例えば、演劇も小説も映画も、いつでも好きな時に鑑賞を止めることができる。いつでも中断できるような悲劇は「リアルな悲劇」とは違う。「フィクションの悲劇」と「リアルな悲劇」を区分することでパラドックスの解消を目指す。
2.悲劇は対価である説
悲劇は単に悲しみを産むだけではない。その悲しみを補って余りある喜びや快をもたらす。悲しみは快を得るための対価であるという考え方だ。例えば、悲劇によって得られるカタルシスという言葉がある。これは、悲劇の物語を味わった際に、気持ちが浄化されたような感覚の1種として知られている。このカタルシスに代表されるように、悲しみの代わりに何かポジティブな感情を得ていると考えることで、このパラドックスを解消する。
3.快以外を求める説
人というのは、単に快だけを求めるわけではなく、そもそも自ら快以外のものも求めるものなのだ、という考え方だ。パラドックスの最初の部分(人は苦痛を避け、快を求める)を否定することでその解消を図る。
以上のように悲劇のパラドックスを整理した上で、ユールは更に、もう一つの議論を提示する。それが4つ目の「矛盾した感情説」だ。これは「人は悲劇を忌避しながら、同時に悲劇を求める」という事態をそのまま捉える考え方。この説では「人は矛盾した感情を同時に抱くことがありうる」と考える。パラドックスを解消するというよりは、矛盾をそのまま理解しようとする。
しかし矛盾した感情を同時に抱くとはどういうことか。そこで導入されるのが2つの時間枠だ。それぞれの感情を2つの異なる時間枠(短期的な時間枠と長期的な時間枠)で捉える。悲劇を悲しんで避けたいと願うのは短期的な欲求であり、悲劇を含めた芸術的な深い体験を味わいたいというのが長期的な欲求。そうして二つの欲求を同時に1人の人間が抱く。こうしてパラドックスは解消(というよりも無効化)される。
上記の4つの「悲劇のパラドックス」議論の整理と、「失敗のパラドックス」との対比。その上で、第2章の最後の節においてユールは「失敗を拒否できること」をテーマに議論を始める。人はゲームにおける失敗の痛みをどのように避けているのか。例えば「ゲーム自体が悪かったから」とか「運が悪かったから」とか「単なるゲームでしかないんだから」というように、様々な言い訳でもって私たちは失敗することの苦痛や責任を回避する。ゲームで勝ち負けを気にするのはもちろんだが、あまりに気にしてしまうと逆にゲームが台無しになってしまう。なにより、ゲームの失敗こそが「次はより良くしよう」とする学習の動機となる。しかし、「通常の学習」はゲームと異なり、失敗が必ずしも必要な存在だとは言えない。例えば車の運転が簡単すぎたとして残念がったりしない。しかし通常、簡単すぎるゲームはつまらないゲームという残念な評価を受ける。
■疑問に思ったこと
僕がこの第2章を読んで疑問に思ったのは、最後の節「ゲームの失敗を拒否できること」の議論の展開だ。それより前の悲劇のパラドックスの議論とこの最後の議論はどのようにつながるのか。それがよく分からなかった。特に車の運転など、「一般的な学習」と「ゲーム」との対比がなぜ出てくるのか、それが唐突な議論に感じてしまった。
その疑問について、今では次のように解釈できるのではないかと考えている。
■悲劇のパラドックスは失敗のパラドックスの解答になっているのか
ユールは、最後の節「ゲームの失敗を拒否できること(翻訳本P30)」で、上記の悲劇のパラドックスに対する3つの説と適合するゲーム経験をそれぞれ具体的に示している。
- ゲームの失敗は痛みを伴いつつも、その1回1回の勝敗をあまり深刻に気にしなくても良い(→1.悲劇は本当の苦痛じゃない説[Deflation説])。
- ゲームの失敗や苦痛によって代わりに得られる喜びや満足がある(→2.悲劇は対価である説[Compensation説])。
- 更に極言して、苦痛を伴う闘いのようなものの方が、勝利の喜びなどよりも尊いのだと考えるなら、それは「人は単に快楽望むわけではない」と言える(→3.人は快以外も求める説[A-hedonism説])。
1つ目のDeflation説から3つ目のA-Hedonism説まで、ゲームの失敗のパラドックスの経験と対応する。しかし、ここで単に「悲劇のパラドックス=失敗のパラドックス」とは言えない部分が出てくる。この部分こそが、第2章のおもしろさではないかと僕は考える。それを示すのが次のような箇所だ。
「ゲームの失敗の不明確な意味が、単なる不具合ではなく、ゲームの特徴であるということをこれは意味する(*2)」 |
この文章こそが、第2章において「ゲームの苦痛のパラドックス」を「悲劇のパラドックス」と結びつけつつ、更に「悲劇のパラドックス」の議論に留まらない部分を示そうとしていると考える。ここで重要なのは「不明確な意味(uncertain meaning)」という言葉だ。ゲームの失敗の意味は不明確なのだ。そしてその不明確さこそがゲームの特徴なんだとユールは言っている。また次のようにも語られる。
「私たちは伝統的な苦痛を伴う芸術のパラドックスに対する説明が、ゲームにも完全に適合することを期待してきたが、真実はむしろ、失敗の不明確な意味こそがゲームを定義する、ということなのだ。(*3)」 |
失敗の意味の不明確さ。それは、ゲームにおける失敗が、現実的な世界での価値づけに固定化されず、ある種の猶予が設けられることだ。ゲームで失敗したからと言って死ぬわけではない。財産をそっくり失うわけではない。不名誉により社会的な立場や信用が失われるわけではない。そうなる可能性は否定できないが、多くのゲームにおいて、こうした失敗の意味が定まっておらず、曖昧で不明確である。ここにゲームの基盤的な特徴が現れている。これをユールは"a freedom from consequences(結果からの自由)(*4)"とも言っている。「ゲームで失敗した、だからなんだ」そう言えることがゲームのゲーム足るゆえんである。「失敗したら入学の資格を失う」これはゲームではなく、例えば入学試験である。「失敗したら死ぬ」これもゲームではなく、例えば戦争である。
つまり、この第2章は、実は「ゲームの定義」に関わる話なのだ。『ルールズ・オブ・プレイ』では、魔法円という概念が出てくる(*5)。これはゲームの世界とは、現実の世界とは異なる領域の中で行われるということを示す概念だ。ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」でも「日常生活」との対比として「遊び」が捉えられる(*6)。「ゲームと現実は違う(*7)」はある意味当たり前の話だが、ゲームの定義という話においてとても重要な観点だ。第2章は、これを失敗という観点から捉えなおす。そして、それは失敗を拒否できるということ。ゲーム結果が曖昧な意味しかもたらさないからこそ、人は安心してゲームに参加できるし、楽しむことができる。ゲームは人を傷つける、が同時に、人に学習を促し、その失敗からの回復への道筋もまた提示する。これは一般的な学習が、特に失敗することを全く必要としていないことと、とても面白い対比をなす。一般的な学習や勉強においての失敗は「本当の失敗」だ。「学び得なかった」という極めて現実的で意味の明確な結果である。楽しいとか楽しくないの問題ではない。しかし、ゲームにおいてはその「明確でないこと」がゲームであるために必要なのだ。
このように考えると、悲劇のパラドックスで示された4つ目の説「矛盾した感情説」は非常に示唆的だ。矛盾した感情が同時にあること。そのとらえどころない複雑さがゲームであり、それは失敗の意味の不確実性というゲームの特徴と呼応する。失敗の意味が明確であれば、矛盾は生じないが、それは同時にゲームでなくなってしまう。単なる快(喜び)か単なる不快(苦痛)ではなく、快と不快のバランスデザインこそがゲームデザインの根幹なのかもしれない。であるならば、矛盾を矛盾として受け入れるところにこそ、ゲームをデザインすることの難しさの根本があるようにも思えてくる。
またこれは作り手だけでなく、ゲームをプレイする側の慣習にも当てはまる。私たちはゲームの勝ち負けを気にする。時には真剣にもなる。しかしその真剣さはゲームを台無しにするものであってはならない。負けそうだからと言ってゲーム盤をひっくり返すようなことをしては、ゲーム自体が成立しなくなってしまう(また逆の意味で、ゲームの勝ち負けを全く気にしないことは同じようにゲームを台無しにするだろう)。「負けたくない」と「ゲームをしたい」は矛盾しながら、そのバランスを取ることで初めてゲームは成立する。大事なのは矛盾をなくすことではない。矛盾をなくしてしまったら、ゲームはゲームでなくなってしまうのだ。例えば車の運転というような一般的な学習において、こうしたバランスを取るというような悩みは存在しない。結果として学べれば、それでいいのである。
ゲームが成立するというのは解決やゴールや答えなのではない。合理的な終着点ではなく、そうした矛盾に満ちたセッションを成立させる作り手と遊び手たちの共犯的な行為であるように思える。
◆脚注
(*1)実のところ「本物の苦痛ではない」というまとめ方は少々乱暴かもしれない。「そもそも苦痛ではない」とか「フリをしているのだ」とか「それは別の何かに変化するものだ」とか色々な議論のバリエーションがあり、本書ではDeflation説の派生バージョンがいくつか紹介されている。
(*2)翻訳本(P30)では次のとおり訳されている。「これはゲームの失敗が意味するところは不確実ですが、悩みの種ではなく、1つの特徴であることを意味します。」原文は次のとおり"the uncertain meaning of game failure is a feature, not a bug"
(*3)翻訳本(P30)では次のとおり訳されている。「苦痛を伴う芸術のパラドックスに関する説明のいずれかが、完璧にゲームに当てはまるのではないかと考えてきましたが、実のところ不確定な失敗の意味によって定義されるのです」原文は次のとおり"We could have hoped that one of the traditional explanations of the paradox of painful art would be a perfect fit for games, but the truth is rather that games are defined by the uncertain meaning of failure."
(*4)翻訳本(P30)
(*5)エリック・ジマーマン,ケイティ・サレン,山本 貴光訳「ルールズオブプレイ(上)」(ソフトバンククリエイティブ)P189~ 第9章 魔法円
(*6)ホイジンガ,高橋 英夫訳「ホモ・ルーデンス」(中央文庫)P73 「またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏づけられている。」
(*7)ユールがゲームの定義に関して示す6つのゲームの特徴。その1つに「交渉可能な結果」というものがある。この特徴については、以前に別のコラムで書いた。
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