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2016年5月15日 (日)

【コラム】批評の呪いから抜け出ること。遊星ゲームズ「批評より攻略」の記事から考える

※自戒を込めてます。

  

遊星ゲームズさんがとてもステキな記事をアップされていた。

  

批評より攻略をしたらいいんじゃないか」-遊星ゲームズ

  

この記事、非常に心情的にも理屈としても納得する。いつも遊星ゲームズさんの記事を楽しく読んでいるファンとしてはとても面白かった。さすがだなあと改めて思った。以前から同じようなことは仰られていたが、こうして記事として明確に書かれることはとても意義深いと思う。

  

一方で、この記事を読んである種の誤解をしてしまう人もいるかなと思った。いや、何が誤解で何が正解なのか、それこそ僕の勝手な思い込みかもしれないのだが。

  

誠に勝手な個人的解釈であるが、この「批評より攻略をしたらいいんじゃないか」から僕自身は何を読み取ったのか、ということをつらつらと書いてみたい。

  

  

■「批評より攻略」のあらまし

  

「批評より攻略をしたらいいんじゃないか」の記事の概要はまとめると次のようなものだ。

  

  • ①ボードゲームの批評で揉めることがある。
  • ②どんな批評も自由だけど、正直めんどうだよね。
  • ③そもそも批評って難しい。目的は?作法は?分からない。
  • ④ある種の不用意な感想(批評?)は、作品について言及してないよね
  • ⑤攻略なら作品について語らざるを得ないから、批評より攻略したらいい

  

以上のような流れの記事であると思う。

  

タイトルを単純に見てしまうと、「批評より攻略せよ」と言っているように見える(まあ、言ってるんだけどw)。もしかしたら、中には「これは批評ディスなのか?」などと考える人もいるかもしれない。しかしそれは早合点だ。そのことを示すために、少しだけ具体的に考えてみよう。

  

  

■攻略が批評になる

  

あるゲームの攻略記事として次のようなものがあったとしたらどうだろうか。

  

「このゲームは手札の中に○○というカードがあったら、最も数字の大きいカードを出し、また△△というカードがあれば、2番目に大きいカードを出すようにしよう。そして、どちらのカードもなければ、一番小さい数字を出すと勝てる。」

  

こんな、たった数行(!)の攻略記事があったとする。この例は単なるフィクションである。何にせよ、この攻略記事は、このゲームで勝つ方法について書いている。しかし、この記事は単に勝てる方法を伝えているわけではない。他にも、とても重要なことを伝えている。それは、このゲームはとても単純で、人によっては3マス×3マスの"○×ゲーム"と同程度のゲームだということを伝えている。つまり、この記事は非常に批評的な記事でもあるのだ。ゲームの攻略はそのゲームに対する本質的な批評になるのだ。

  

更に別の攻略記事の例を考えてみよう(もちろんこれもフィクション)。

  

「このゲームでは、A、B、Cの3種類の手札を出すことで得点を稼ぐ。Aで獲得できる期待値はゲームを通して5.5点である。Bについても、5.5点である。そして、Cについても5.5点である。以下、その計算を方法を示す。(略)。以上のとおり、本ゲームでは、どの手札を出しても勝ち負けに差異はないのであり、このゲームは純粋なじゃんけんになっていると考えられる。」

  

さて、これは攻略記事だろうか。立派な攻略記事であろう。勝てる方法がない、すなわち攻略しようがないということを示した記事である。こうなると、攻略記事は更に批評性を増すようにも見える。

  

遊星ゲームズさんの記事が語っていることはとてもシンプルなことだと考える。「結論はいい。その論証プロセスを書け」と言っているのではないだろうか。上の例で言えば、まさに(略)としたところにこそ大事な部分がある。その具体的なガイドラインとして「攻略したら?」という極めて実用的なアドバイスが語られている。単に「批評をするな」などと言っているのでは「ない」と考える。そしてこれは何も攻略記事でなくても同じなのだ。何かを語ろう(批評しよう)と思ったら、基本的には論理(論証プロセス)が必要になるのである。(*1)

  

  

■やってはいけない批評というのはあるのか

  

遊星ゲームズさんの記事にもあるとおり基本は「誰がなにをいってもかまわない」。僕自身もそう考えている。しかし不安になる。あるゲームについて感想を言ったり論じたりするのに、何かやってはいけないことがあるなら、教えて欲しい。そんな不安から色々なルールを求めたくなる、そんな面もあるのかもしれない。だからこそ「○○なんて言うのはダメなんだよ」という言説が生み出されて、それがまた新たな不幸を産んだりもする。

  

よく「ある作品を褒めるのに、他の作品の悪口を言ってはいけない」なんてことが言われる。それはそれ、そういう考え方もあるだろう。また「作品の批判をしてもいいけど、人格批判をしてはいけないのだ」なんてことも言われる。一理あるだろう。ただ、少し考えた方がいいのは、それはマナーの話ではないか?ということだ。「悪口」や「人格批判」や「罵り」や「貶め」という言葉が使われるとき、それは既にある一定の価値判断を含んでしまっている。それは別に批評に限らず、原則的には「してはいけないこと」なのだ。つまりマナーの話である。別に批評の話と関係がない。ボードゲームともゲームとも作品とも関係がない。常に真、常に正しい話なのだから。もちろん、そういう当たり前を言いたくなる状況というのはあるだろう。しかしそういうマナーの話は「作品自体の話をしようぜ」という先の記事の主旨からは本当は離れてしまうのかもしれない。

  

また、論理的に話せばそれでいいのか。主観的な感想であれば、全く問題ないのか。実は全然そうでもない。論理的に整然と駄目さ加減を論じられて、作品の作り手やファンの人格が傷つかないか。いやいや全くそんなことはない。穏やかに諭されるように純粋かつ客観的に作品の欠点を指摘されたら、むしろ感情的に怒りたくなる人(ファン、作り手)だっているだろう。「個人の趣味の違いだから主観的な意見を気にするな?」。人はそんなに理性的でも強靱でもない。つまりどんなに語り手が気をつけていても、他人を傷つけることはあり得る。主観的でもむかつくし、客観的でもむかつくときはむかつくのだ。

  

さて、では批評は戦いにならざるを得ないのだろうか。その点についても、先の遊星ゲームズさんの記事は重要なヒントになると考える。先の記事では1つの例としてある感想・批評が例に挙げられている。

  

具体的にいうと、

「これはつまらないのでオススメしません」  これ。よく見る文だけどこれ、作品自体じゃなく読み手に向けての表現になっている。つまり少し批評から外れはじめてると思うのだ。

   『批評より攻略をしたらいいんじゃないか』-遊星ゲームズ 

  

批評じゃないと言い切らないところにも書き手の慎重さがよく現れている。さすがだと思う。「これはつまらないのでオススメしません」。この言葉、僕もそうだが、いかにも言ってしまいそうな言葉ではないか。あくまで主観的な感想を述べているだけに過ぎない。これをダメだと言ってしまったら、どんな批評も難しくなるような気もする。しかし、遊星ゲームズさんの記事は1点重要なことを指摘している。それは「作品自体について語られていない」という指摘である。これは先ほど示したとおり「作品の評価に関する論証プロセスが欠落している」と解釈する。では、このことはどういう問題になるのか。それを僕はある1つの言葉で表現できるのではないかと思っている。それは「呪い」である。「呪い」とは対話の可能性を閉じるということだ。

  

「これはつまらないのでオススメしません」に問題があるのだとしたら、それはその作品に呪いを掛けているという点にある。これ、やっている方は意外に自覚的だったりする。ある種の趣味を「呪い」たい。哀しいかな、人はそういう誘惑に駆られることがある。というか、僕はある。ある何かの趣味やセンスや作品を呪いたいと思うことが。多分、これがマズイ。そして、これは、ある言葉を使うから、必ず「呪い」になるというものでもない。特定の文脈や背景があって、初めて「呪い」になる。言葉狩りをしてもあまり意味はない。

  

  

■批評における呪いとは

  

例えば、幼女が陵辱されるような物語を好む趣味がある。そんな趣味を呪いたい。分かる。気持ちは痛いほど分かる。僕も人の親である。すごく理解できる。もちろん「幼女陵辱」だけではない。そこには「同人ゲーム」や「アメリトラッシュ」や「ソシャゲ」や「JRPG」や「最近の萌えアニメ」や「ラノベ」や「特定の作者の名前」や「ゲーム会社の名前」など何でも入りうる。しかし、その呪いをできる限り、文脈も含めて言葉に込めないことが重要なのだろう。呪いたい気持ちをできる限り殺すこと。そのための1つの方策が論理に頼る、ということである。目的と論証プロセスをできる限り精緻にすることだ。なぜなら論理は対話に繋がるからだ。話し手(批評者)が間違っている可能性さえオープンにできる。論理は基本的にクローズなものではない。「気持ち悪い、おぞましい」が呪いになりやすいのは、それがあらゆる可能性をクローズさせるものだからだ。呪いの目的は、うっすらとした敵の殲滅願望にある。(*2)

  

しかし、いずれにしろ、その判断は難しい。僕自身も無実であり得ない。繰り返すが「これはつまらないのでオススメしません」という言葉自体に呪いがあるわけではない。言葉を禁止することには意味はない。ある文脈では、全く同じ言葉が穏当に使われる場合も十分にあるのだから。

  

どれだけ論理的に語ろうとも人を傷つける可能性がなくなるわけではない。しかし、それでも、「呪い」を抑制し、可能性(それは批評者の誤りの可能性)を閉じないようにすべきだと思う。呪いを抑制するのは、論理と沈黙しかない。ゲームであれば「攻略」はそういう意味においても、非常に有効である。これは「目指すべき明確な目的がある」というボードゲームという趣味の特性のお蔭だろう。ボードゲームにおいて勝利すること(目的)は、完全に否定することが難しい価値だからだ。こんなにも分かりやすく「呪い」を抑制するきっかけのある趣味はない(*3)。人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものだ。何か呪いたいゲームや作品があるなら「まずは攻略してやろう」からスタートすることができる。その姿勢は、そんな二つの呪いの穴を埋めてくれるとても良いきっかけになるのではないだろうか。

  

  

◆脚注

(*1)ただ、元記事で本質的に問題視されているのは、その論証プロセスのやり方や作法がよく分からないという問題ではあるだろう。しかしこれは批評者の能力や知識や経験など正に難しすぎる問題(バカは発言するな問題)に突入しかねないので、ここでは無視する。一言付け加えるなら、実はそれは批評を受けとめる側にも当てはまる問題であろう。

  

(*2)当たり前だが、「気持ち悪いとかおぞましいと思うな」ということではない。家で奥さんや猫を相手にどれだけ特定の作品や趣味への呪いの言葉を吐こうが、それは自由なのだ。ここ重要なポイントと思う。

  

(*3)本音を言えば、勝利や目的が明確にならないようなゲーム(ジャンル)では、一度評価についてこじれると難しいのかもなと勝手ながら想像する。

  

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