ボードゲームコラム

2016年5月15日 (日)

【コラム】批評の呪いから抜け出ること。遊星ゲームズ「批評より攻略」の記事から考える

※自戒を込めてます。

  

遊星ゲームズさんがとてもステキな記事をアップされていた。

  

批評より攻略をしたらいいんじゃないか」-遊星ゲームズ

  

この記事、非常に心情的にも理屈としても納得する。いつも遊星ゲームズさんの記事を楽しく読んでいるファンとしてはとても面白かった。さすがだなあと改めて思った。以前から同じようなことは仰られていたが、こうして記事として明確に書かれることはとても意義深いと思う。

  

一方で、この記事を読んである種の誤解をしてしまう人もいるかなと思った。いや、何が誤解で何が正解なのか、それこそ僕の勝手な思い込みかもしれないのだが。

  

誠に勝手な個人的解釈であるが、この「批評より攻略をしたらいいんじゃないか」から僕自身は何を読み取ったのか、ということをつらつらと書いてみたい。

  

  

■「批評より攻略」のあらまし

  

「批評より攻略をしたらいいんじゃないか」の記事の概要はまとめると次のようなものだ。

  

  • ①ボードゲームの批評で揉めることがある。
  • ②どんな批評も自由だけど、正直めんどうだよね。
  • ③そもそも批評って難しい。目的は?作法は?分からない。
  • ④ある種の不用意な感想(批評?)は、作品について言及してないよね
  • ⑤攻略なら作品について語らざるを得ないから、批評より攻略したらいい

  

以上のような流れの記事であると思う。

  

タイトルを単純に見てしまうと、「批評より攻略せよ」と言っているように見える(まあ、言ってるんだけどw)。もしかしたら、中には「これは批評ディスなのか?」などと考える人もいるかもしれない。しかしそれは早合点だ。そのことを示すために、少しだけ具体的に考えてみよう。

  

  

■攻略が批評になる

  

あるゲームの攻略記事として次のようなものがあったとしたらどうだろうか。

  

「このゲームは手札の中に○○というカードがあったら、最も数字の大きいカードを出し、また△△というカードがあれば、2番目に大きいカードを出すようにしよう。そして、どちらのカードもなければ、一番小さい数字を出すと勝てる。」

  

こんな、たった数行(!)の攻略記事があったとする。この例は単なるフィクションである。何にせよ、この攻略記事は、このゲームで勝つ方法について書いている。しかし、この記事は単に勝てる方法を伝えているわけではない。他にも、とても重要なことを伝えている。それは、このゲームはとても単純で、人によっては3マス×3マスの"○×ゲーム"と同程度のゲームだということを伝えている。つまり、この記事は非常に批評的な記事でもあるのだ。ゲームの攻略はそのゲームに対する本質的な批評になるのだ。

  

更に別の攻略記事の例を考えてみよう(もちろんこれもフィクション)。

  

「このゲームでは、A、B、Cの3種類の手札を出すことで得点を稼ぐ。Aで獲得できる期待値はゲームを通して5.5点である。Bについても、5.5点である。そして、Cについても5.5点である。以下、その計算を方法を示す。(略)。以上のとおり、本ゲームでは、どの手札を出しても勝ち負けに差異はないのであり、このゲームは純粋なじゃんけんになっていると考えられる。」

  

さて、これは攻略記事だろうか。立派な攻略記事であろう。勝てる方法がない、すなわち攻略しようがないということを示した記事である。こうなると、攻略記事は更に批評性を増すようにも見える。

  

遊星ゲームズさんの記事が語っていることはとてもシンプルなことだと考える。「結論はいい。その論証プロセスを書け」と言っているのではないだろうか。上の例で言えば、まさに(略)としたところにこそ大事な部分がある。その具体的なガイドラインとして「攻略したら?」という極めて実用的なアドバイスが語られている。単に「批評をするな」などと言っているのでは「ない」と考える。そしてこれは何も攻略記事でなくても同じなのだ。何かを語ろう(批評しよう)と思ったら、基本的には論理(論証プロセス)が必要になるのである。(*1)

  

  

■やってはいけない批評というのはあるのか

  

遊星ゲームズさんの記事にもあるとおり基本は「誰がなにをいってもかまわない」。僕自身もそう考えている。しかし不安になる。あるゲームについて感想を言ったり論じたりするのに、何かやってはいけないことがあるなら、教えて欲しい。そんな不安から色々なルールを求めたくなる、そんな面もあるのかもしれない。だからこそ「○○なんて言うのはダメなんだよ」という言説が生み出されて、それがまた新たな不幸を産んだりもする。

  

よく「ある作品を褒めるのに、他の作品の悪口を言ってはいけない」なんてことが言われる。それはそれ、そういう考え方もあるだろう。また「作品の批判をしてもいいけど、人格批判をしてはいけないのだ」なんてことも言われる。一理あるだろう。ただ、少し考えた方がいいのは、それはマナーの話ではないか?ということだ。「悪口」や「人格批判」や「罵り」や「貶め」という言葉が使われるとき、それは既にある一定の価値判断を含んでしまっている。それは別に批評に限らず、原則的には「してはいけないこと」なのだ。つまりマナーの話である。別に批評の話と関係がない。ボードゲームともゲームとも作品とも関係がない。常に真、常に正しい話なのだから。もちろん、そういう当たり前を言いたくなる状況というのはあるだろう。しかしそういうマナーの話は「作品自体の話をしようぜ」という先の記事の主旨からは本当は離れてしまうのかもしれない。

  

また、論理的に話せばそれでいいのか。主観的な感想であれば、全く問題ないのか。実は全然そうでもない。論理的に整然と駄目さ加減を論じられて、作品の作り手やファンの人格が傷つかないか。いやいや全くそんなことはない。穏やかに諭されるように純粋かつ客観的に作品の欠点を指摘されたら、むしろ感情的に怒りたくなる人(ファン、作り手)だっているだろう。「個人の趣味の違いだから主観的な意見を気にするな?」。人はそんなに理性的でも強靱でもない。つまりどんなに語り手が気をつけていても、他人を傷つけることはあり得る。主観的でもむかつくし、客観的でもむかつくときはむかつくのだ。

  

さて、では批評は戦いにならざるを得ないのだろうか。その点についても、先の遊星ゲームズさんの記事は重要なヒントになると考える。先の記事では1つの例としてある感想・批評が例に挙げられている。

  

具体的にいうと、

「これはつまらないのでオススメしません」  これ。よく見る文だけどこれ、作品自体じゃなく読み手に向けての表現になっている。つまり少し批評から外れはじめてると思うのだ。

   『批評より攻略をしたらいいんじゃないか』-遊星ゲームズ 

  

批評じゃないと言い切らないところにも書き手の慎重さがよく現れている。さすがだと思う。「これはつまらないのでオススメしません」。この言葉、僕もそうだが、いかにも言ってしまいそうな言葉ではないか。あくまで主観的な感想を述べているだけに過ぎない。これをダメだと言ってしまったら、どんな批評も難しくなるような気もする。しかし、遊星ゲームズさんの記事は1点重要なことを指摘している。それは「作品自体について語られていない」という指摘である。これは先ほど示したとおり「作品の評価に関する論証プロセスが欠落している」と解釈する。では、このことはどういう問題になるのか。それを僕はある1つの言葉で表現できるのではないかと思っている。それは「呪い」である。「呪い」とは対話の可能性を閉じるということだ。

  

「これはつまらないのでオススメしません」に問題があるのだとしたら、それはその作品に呪いを掛けているという点にある。これ、やっている方は意外に自覚的だったりする。ある種の趣味を「呪い」たい。哀しいかな、人はそういう誘惑に駆られることがある。というか、僕はある。ある何かの趣味やセンスや作品を呪いたいと思うことが。多分、これがマズイ。そして、これは、ある言葉を使うから、必ず「呪い」になるというものでもない。特定の文脈や背景があって、初めて「呪い」になる。言葉狩りをしてもあまり意味はない。

  

  

■批評における呪いとは

  

例えば、幼女が陵辱されるような物語を好む趣味がある。そんな趣味を呪いたい。分かる。気持ちは痛いほど分かる。僕も人の親である。すごく理解できる。もちろん「幼女陵辱」だけではない。そこには「同人ゲーム」や「アメリトラッシュ」や「ソシャゲ」や「JRPG」や「最近の萌えアニメ」や「ラノベ」や「特定の作者の名前」や「ゲーム会社の名前」など何でも入りうる。しかし、その呪いをできる限り、文脈も含めて言葉に込めないことが重要なのだろう。呪いたい気持ちをできる限り殺すこと。そのための1つの方策が論理に頼る、ということである。目的と論証プロセスをできる限り精緻にすることだ。なぜなら論理は対話に繋がるからだ。話し手(批評者)が間違っている可能性さえオープンにできる。論理は基本的にクローズなものではない。「気持ち悪い、おぞましい」が呪いになりやすいのは、それがあらゆる可能性をクローズさせるものだからだ。呪いの目的は、うっすらとした敵の殲滅願望にある。(*2)

  

しかし、いずれにしろ、その判断は難しい。僕自身も無実であり得ない。繰り返すが「これはつまらないのでオススメしません」という言葉自体に呪いがあるわけではない。言葉を禁止することには意味はない。ある文脈では、全く同じ言葉が穏当に使われる場合も十分にあるのだから。

  

どれだけ論理的に語ろうとも人を傷つける可能性がなくなるわけではない。しかし、それでも、「呪い」を抑制し、可能性(それは批評者の誤りの可能性)を閉じないようにすべきだと思う。呪いを抑制するのは、論理と沈黙しかない。ゲームであれば「攻略」はそういう意味においても、非常に有効である。これは「目指すべき明確な目的がある」というボードゲームという趣味の特性のお蔭だろう。ボードゲームにおいて勝利すること(目的)は、完全に否定することが難しい価値だからだ。こんなにも分かりやすく「呪い」を抑制するきっかけのある趣味はない(*3)。人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものだ。何か呪いたいゲームや作品があるなら「まずは攻略してやろう」からスタートすることができる。その姿勢は、そんな二つの呪いの穴を埋めてくれるとても良いきっかけになるのではないだろうか。

  

  

◆脚注

(*1)ただ、元記事で本質的に問題視されているのは、その論証プロセスのやり方や作法がよく分からないという問題ではあるだろう。しかしこれは批評者の能力や知識や経験など正に難しすぎる問題(バカは発言するな問題)に突入しかねないので、ここでは無視する。一言付け加えるなら、実はそれは批評を受けとめる側にも当てはまる問題であろう。

  

(*2)当たり前だが、「気持ち悪いとかおぞましいと思うな」ということではない。家で奥さんや猫を相手にどれだけ特定の作品や趣味への呪いの言葉を吐こうが、それは自由なのだ。ここ重要なポイントと思う。

  

(*3)本音を言えば、勝利や目的が明確にならないようなゲーム(ジャンル)では、一度評価についてこじれると難しいのかもなと勝手ながら想像する。

  

2016年3月 6日 (日)

【ゲーム論を読む】失敗の意味がゲームを定義する~「しかめっ面にさせるゲームは成功する」第2章を読んで~

しかめっ面にさせるゲームは成功する(原題:The Art of Failure)」はゲームを失敗という観点から分析・考察する本だ。最後までとても楽しく読んだのだが、個人的には第2章「失敗のパラドックスと悲劇のパラドックス」が特に面白かった。本記事はこの第2章を中心に取り上げて書く。なぜ第2章を取り上げるのか。それは「単に面白かったから」というだけでなく、最初に読んだ時「よく分からないな」とも感じたからだ。書いてある内容が分からないというよりも、なぜそういう議論の展開になるのか分からない。しかし最近、原書を読んでみて「なるほど、こういうことが言いたかったのか」と思ったので、自分の理解の整理のためにも書いてみたいと思う。

まず、本記事では第2章の概略を示す。次に、僕自身がどういう部分を疑問に感じたのかを書く。そして最後に、原書を読んで最終的にどのような理解に至ったかをまとめたい。ポイントは議論の力点がどこにあるのかということだ。どの部分を重要な話として見るか。翻訳された「しかめっ面」では、それが分かりにくいのではないかと感じた。あくまで僕自身の解釈なので、違っている面などあればご指摘願いたい。

  

■第2章「失敗のパラドックスと悲劇のパラドックス」の概略

  

第2章は、「失敗のパラドックス」と「悲劇のパラドックス(苦痛を伴う芸術のパラドックス)」の2つを対比的に取り扱っている。「失敗のパラドックス」とは本書の主題である。「1.我々は一般に失敗を避ける。2.ゲームをプレイするとき、我々は失敗を経験する。3.普通は回避しようと思うような経験を味わうかもしれないのに、我々はゲームを求める。」これが失敗のパラドックスである。

  

「悲劇のパラドックス」も非常に構図が似ている。昔から美学・芸術哲学の分野で多くの議論がなされてきたパラドックスだ。おおまかには次のようになる。「1.人は一般に苦痛をもたらす状況を求めようとはしない。2.悲劇などの芸術は人に苦痛の感情を喚起させる。3.ある種の芸術は苦痛を伴うと知っているが、人はそれを求める」この悲劇のパラドックスへの説明をアーロン・スマッツ(Aaron Smuts)の議論を元に、筆者のユールが以下の3つのカテゴリーに整理する。

  

  • 1.芸術は本当の苦痛をもたらさない説(Deflation説)
  • 2.苦痛は対価である説(Compensation説)
  • 3.人は快以外も求める説(A-Hedonism説)

  

それぞれの説を簡単に説明すると次のようになる。

  

1.芸術は本当の苦痛をもたらさない説

  

演劇や小説などの芸術で味わう痛みというのは、本物の苦痛とは違うという考え方だ(*1)。だからこそ人は悲劇を自ら望んで鑑賞することができる。例えば、演劇も小説も映画も、いつでも好きな時に鑑賞を止めることができる。いつでも中断できるような悲劇は「リアルな悲劇」とは違う。「フィクションの悲劇」と「リアルな悲劇」を区分することでパラドックスの解消を目指す。

  

2.悲劇は対価である説

  

悲劇は単に悲しみを産むだけではない。その悲しみを補って余りある喜びや快をもたらす。悲しみは快を得るための対価であるという考え方だ。例えば、悲劇によって得られるカタルシスという言葉がある。これは、悲劇の物語を味わった際に、気持ちが浄化されたような感覚の1種として知られている。このカタルシスに代表されるように、悲しみの代わりに何かポジティブな感情を得ていると考えることで、このパラドックスを解消する。

  

3.快以外を求める説

  

人というのは、単に快だけを求めるわけではなく、そもそも自ら快以外のものも求めるものなのだ、という考え方だ。パラドックスの最初の部分(人は苦痛を避け、快を求める)を否定することでその解消を図る。

  

以上のように悲劇のパラドックスを整理した上で、ユールは更に、もう一つの議論を提示する。それが4つ目の「矛盾した感情説」だ。これは「人は悲劇を忌避しながら、同時に悲劇を求める」という事態をそのまま捉える考え方。この説では「人は矛盾した感情を同時に抱くことがありうる」と考える。パラドックスを解消するというよりは、矛盾をそのまま理解しようとする。

  

しかし矛盾した感情を同時に抱くとはどういうことか。そこで導入されるのが2つの時間枠だ。それぞれの感情を2つの異なる時間枠(短期的な時間枠と長期的な時間枠)で捉える。悲劇を悲しんで避けたいと願うのは短期的な欲求であり、悲劇を含めた芸術的な深い体験を味わいたいというのが長期的な欲求。そうして二つの欲求を同時に1人の人間が抱く。こうしてパラドックスは解消(というよりも無効化)される。

  

上記の4つの「悲劇のパラドックス」議論の整理と、「失敗のパラドックス」との対比。その上で、第2章の最後の節においてユールは「失敗を拒否できること」をテーマに議論を始める。人はゲームにおける失敗の痛みをどのように避けているのか。例えば「ゲーム自体が悪かったから」とか「運が悪かったから」とか「単なるゲームでしかないんだから」というように、様々な言い訳でもって私たちは失敗することの苦痛や責任を回避する。ゲームで勝ち負けを気にするのはもちろんだが、あまりに気にしてしまうと逆にゲームが台無しになってしまう。なにより、ゲームの失敗こそが「次はより良くしよう」とする学習の動機となる。しかし、「通常の学習」はゲームと異なり、失敗が必ずしも必要な存在だとは言えない。例えば車の運転が簡単すぎたとして残念がったりしない。しかし通常、簡単すぎるゲームはつまらないゲームという残念な評価を受ける。

  

■疑問に思ったこと

僕がこの第2章を読んで疑問に思ったのは、最後の節「ゲームの失敗を拒否できること」の議論の展開だ。それより前の悲劇のパラドックスの議論とこの最後の議論はどのようにつながるのか。それがよく分からなかった。特に車の運転など、「一般的な学習」と「ゲーム」との対比がなぜ出てくるのか、それが唐突な議論に感じてしまった。

その疑問について、今では次のように解釈できるのではないかと考えている。

  

■悲劇のパラドックスは失敗のパラドックスの解答になっているのか

ユールは、最後の節「ゲームの失敗を拒否できること(翻訳本P30)」で、上記の悲劇のパラドックスに対する3つの説と適合するゲーム経験をそれぞれ具体的に示している。

  

  • ゲームの失敗は痛みを伴いつつも、その1回1回の勝敗をあまり深刻に気にしなくても良い(→1.悲劇は本当の苦痛じゃない説[Deflation説])。
  • ゲームの失敗や苦痛によって代わりに得られる喜びや満足がある(→2.悲劇は対価である説[Compensation説])。
  • 更に極言して、苦痛を伴う闘いのようなものの方が、勝利の喜びなどよりも尊いのだと考えるなら、それは「人は単に快楽望むわけではない」と言える(→3.人は快以外も求める説[A-hedonism説])。

  

1つ目のDeflation説から3つ目のA-Hedonism説まで、ゲームの失敗のパラドックスの経験と対応する。しかし、ここで単に「悲劇のパラドックス=失敗のパラドックス」とは言えない部分が出てくる。この部分こそが、第2章のおもしろさではないかと僕は考える。それを示すのが次のような箇所だ。

  

「ゲームの失敗の不明確な意味が、単なる不具合ではなく、ゲームの特徴であるということをこれは意味する(*2)」

  

この文章こそが、第2章において「ゲームの苦痛のパラドックス」を「悲劇のパラドックス」と結びつけつつ、更に「悲劇のパラドックス」の議論に留まらない部分を示そうとしていると考える。ここで重要なのは「不明確な意味(uncertain meaning)」という言葉だ。ゲームの失敗の意味は不明確なのだ。そしてその不明確さこそがゲームの特徴なんだとユールは言っている。また次のようにも語られる。

  

「私たちは伝統的な苦痛を伴う芸術のパラドックスに対する説明が、ゲームにも完全に適合することを期待してきたが、真実はむしろ、失敗の不明確な意味こそがゲームを定義する、ということなのだ。(*3)」

  

失敗の意味の不明確さ。それは、ゲームにおける失敗が、現実的な世界での価値づけに固定化されず、ある種の猶予が設けられることだ。ゲームで失敗したからと言って死ぬわけではない。財産をそっくり失うわけではない。不名誉により社会的な立場や信用が失われるわけではない。そうなる可能性は否定できないが、多くのゲームにおいて、こうした失敗の意味が定まっておらず、曖昧で不明確である。ここにゲームの基盤的な特徴が現れている。これをユールは"a freedom from consequences(結果からの自由)(*4)"とも言っている。「ゲームで失敗した、だからなんだ」そう言えることがゲームのゲーム足るゆえんである。「失敗したら入学の資格を失う」これはゲームではなく、例えば入学試験である。「失敗したら死ぬ」これもゲームではなく、例えば戦争である。

  

つまり、この第2章は、実は「ゲームの定義」に関わる話なのだ。『ルールズ・オブ・プレイ』では、魔法円という概念が出てくる(*5)。これはゲームの世界とは、現実の世界とは異なる領域の中で行われるということを示す概念だ。ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」でも「日常生活」との対比として「遊び」が捉えられる(*6)。「ゲームと現実は違う(*7)」はある意味当たり前の話だが、ゲームの定義という話においてとても重要な観点だ。第2章は、これを失敗という観点から捉えなおす。そして、それは失敗を拒否できるということ。ゲーム結果が曖昧な意味しかもたらさないからこそ、人は安心してゲームに参加できるし、楽しむことができる。ゲームは人を傷つける、が同時に、人に学習を促し、その失敗からの回復への道筋もまた提示する。これは一般的な学習が、特に失敗することを全く必要としていないことと、とても面白い対比をなす。一般的な学習や勉強においての失敗は「本当の失敗」だ。「学び得なかった」という極めて現実的で意味の明確な結果である。楽しいとか楽しくないの問題ではない。しかし、ゲームにおいてはその「明確でないこと」がゲームであるために必要なのだ。

  

このように考えると、悲劇のパラドックスで示された4つ目の説「矛盾した感情説」は非常に示唆的だ。矛盾した感情が同時にあること。そのとらえどころない複雑さがゲームであり、それは失敗の意味の不確実性というゲームの特徴と呼応する。失敗の意味が明確であれば、矛盾は生じないが、それは同時にゲームでなくなってしまう。単なる快(喜び)か単なる不快(苦痛)ではなく、快と不快のバランスデザインこそがゲームデザインの根幹なのかもしれない。であるならば、矛盾を矛盾として受け入れるところにこそ、ゲームをデザインすることの難しさの根本があるようにも思えてくる。

  

またこれは作り手だけでなく、ゲームをプレイする側の慣習にも当てはまる。私たちはゲームの勝ち負けを気にする。時には真剣にもなる。しかしその真剣さはゲームを台無しにするものであってはならない。負けそうだからと言ってゲーム盤をひっくり返すようなことをしては、ゲーム自体が成立しなくなってしまう(また逆の意味で、ゲームの勝ち負けを全く気にしないことは同じようにゲームを台無しにするだろう)。「負けたくない」と「ゲームをしたい」は矛盾しながら、そのバランスを取ることで初めてゲームは成立する。大事なのは矛盾をなくすことではない。矛盾をなくしてしまったら、ゲームはゲームでなくなってしまうのだ。例えば車の運転というような一般的な学習において、こうしたバランスを取るというような悩みは存在しない。結果として学べれば、それでいいのである。

  

ゲームが成立するというのは解決やゴールや答えなのではない。合理的な終着点ではなく、そうした矛盾に満ちたセッションを成立させる作り手と遊び手たちの共犯的な行為であるように思える。

 

 

◆脚注

(*1)実のところ「本物の苦痛ではない」というまとめ方は少々乱暴かもしれない。「そもそも苦痛ではない」とか「フリをしているのだ」とか「それは別の何かに変化するものだ」とか色々な議論のバリエーションがあり、本書ではDeflation説の派生バージョンがいくつか紹介されている。

  

(*2)翻訳本(P30)では次のとおり訳されている。「これはゲームの失敗が意味するところは不確実ですが、悩みの種ではなく、1つの特徴であることを意味します。」原文は次のとおり"the uncertain meaning of game failure is a feature, not a bug"

  

(*3)翻訳本(P30)では次のとおり訳されている。「苦痛を伴う芸術のパラドックスに関する説明のいずれかが、完璧にゲームに当てはまるのではないかと考えてきましたが、実のところ不確定な失敗の意味によって定義されるのです」原文は次のとおり"We could have hoped that one of the traditional explanations of the paradox of painful art would be a perfect fit for games, but the truth is rather that games are defined by the uncertain meaning of failure."

  

(*4)翻訳本(P30)

  

(*5)エリック・ジマーマン,ケイティ・サレン,山本 貴光訳「ルールズオブプレイ(上)」(ソフトバンククリエイティブ)P189~ 第9章 魔法円

  

(*6)ホイジンガ,高橋 英夫訳「ホモ・ルーデンス」(中央文庫)P73 「またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏づけられている。」

  

(*7)ユールがゲームの定義に関して示す6つのゲームの特徴。その1つに「交渉可能な結果」というものがある。この特徴については、以前に別のコラムで書いた。

2014年8月30日 (土)

【海外記事翻訳】ドミニオンは複雑すぎた?!審査員長が語るドイツ年間ゲーム大賞の内幕

本記事は、こちらのインタビュー記事"An interview with Tom Felber, jury chairman of the Spiel des Jahres award"を訳したものです。現在もボードゲーム界において、非常に大きな影響力を持つSDJ(ドイツ年間ゲーム大賞)。その審査員長であるトム・フェルバー氏(Tom Felber)へのインタビュアー記事になります。このインタビューは、『シカゴ トイ&ゲームグループ』という団体が自らのイベントに特別ゲストとしてトム氏を招くにあたり行ったものです。ちなみに、オリジナル記事は2014年4月17日にアップされました。

何か、翻訳に誤りなどありましたら、ご指摘いただければ幸いです。以下、記事本文になります。



――ドイツ年間ゲーム大賞は、ドイツ(語圏)のボードゲーム批評家が審査員となり、ドイツ国内で発売されたゲームに対して授与される賞ですが、いまや世界中のボードゲームマニア(hobbyists)の注目を集める存在となっています。この賞がこれほど広く受け入れられてきたのは、どのような理由や経緯によるものだと思われますか?


奇妙かもしれないけど、1つには、マニア(hobbyists)向けにはしなかったからだろうね。この賞のターゲットは、すべての人なんだ。たいていの人はゲームを遊ぶのが好きだし、人と一緒に楽しむのが好きだ。だけど、そういう人でもたいていは、駄目なゲーム(bad games)で嫌な思いをした経験がある。ボードゲーム文化の敵は、コンピュータゲームじゃない。駄目なボードゲームなんだ。お店にはものすごい数のゲームが並んでるけれど、審査員は公正な審査を心がけているよ。大事なのは、独立性、信頼性、そして情熱だね。僕たちは、ゲーム業界外部の人間だ。良いゲームに関心があるだけで、特定の会社や人に遠慮する必要はないからね。今も審査員のメンバーは、この仕事でお金をもらったりはしていないよ。


――ドイツ年間ゲーム大賞のプロモーションのため、訪米されているわけですが、あなたにとって、この訪米を成功させる目標は何でしょうか。


別にドイツ年間ゲーム大賞のプロモーションツアーってわけじゃないんだよ。『ドイツ年間ゲーム大賞』は僕にとって、ビジネスじゃないんだ。プライベートな旅行として、ナイアガラの滝で「Gathering of Friends(※1)」に参加して、あとはカリフォルニアの友達に会いに行く。今回、個人的な旅行には違いないけれど、アメリカのおもちゃ・ゲーム業界の人にドイツ年間ゲーム大賞の背景を説明するいい機会ではあったね。この賞が、アメリカでも注目されるようになって、いろいろな要望をもらうようになってきたんだけど、そういうのを見てると、結構、間違った情報や誤解があるんだよね。だからアメリカでも、より多くの人がドイツ年間ゲーム大賞って実際どういうもので、審査員が何をしているのかを知ってもらえれば、この旅行は「成功」と言えるだろうね。


※1……アラン・ムーン氏が毎年主催しているボードゲームを遊ぶ招待制のイベント。ナイアガラの滝近くで開催されている。


――わたしたちの交流会(※2)以外では、旅行中、どのような時間の使い方をするご予定ですか?

個人的な観光とか、昔の友達とゲームを遊んだりするよ。


※2……「シカゴ トイ&ゲームグループ」が主催するイベント。トム氏は特別ゲストとして招待された。


――ドイツ年間ゲーム大賞のノミネートで紛糾したものを、何か1つ教えてもらえますか?


いや、すまない。できないんだ。審査中の出来事は、審査の中だけに留めておくことにしてる。


けど、一般的な話として、審査で議論になるのは、個々のゲームのテーマに対して、暴力性を懸念する声によるものが多いね。侵略、戦争、暴力、そういうテーマがそもそもゲームを楽しめるテーマなのか、適切なのかという話だね。


――2011年にドイツ年間ゲーム大賞にエキスパート部門(KENNERSPIEL)が設けられました。市場が広がったら、また新たな部門が追加されるようなことがあると思いますか?もしそうであれば、将来的に、どのような部門の追加があり得るでしょうか?


いや、3部門で十分だと思うよ。賞は少なければ少ないほど力を持つんだ。われわれとしては、できるだけ多くの新聞や雑誌に取り上げられたいわけだけど、賞の種類や受賞作品の数が多すぎると、記事を書くジャーナリストにとっては複雑すぎておもしろみがなくなるんだ。こちらもジャーナリストだから、ニュース記事ではポイントをしぼらなきゃいけないことはよくわかってるんだよ。同時に5部門も紹介したらポイントがぼやけてしまう。繰り返しだけど、「ドイツ年間ゲーム大賞」は業界やマニアのための賞じゃない。ゲームを楽しむ、すべての人のための賞なんだ。


1つ言わせてもらえば、エキスパート部門を創設した主な理由の1つは、「ドイツ年間ゲーム大賞」が複雑になりすぎるのを防ぐためなんだ。僕にとって、「エキスパート部門」の黒のポーン(※3)は、赤のポーンの「ボディガード」のようなものさ。審査員はみんな、自分たちも熱心なボードゲーマーで、革新的なボードゲームや複雑なボードゲームを愛している。だけど、そういうゲームって大体の場合、素晴らしいけど大多数の人にとっては重すぎるんだ。「エキスパート部門」が導入される前は、素晴らしいゲームだけど一般の人にとっては複雑すぎる、そんなゲームが大賞に選ばれる危険性が常にあった。「ドミニオン」がまさにそれだ。「エキスパート部門」は、この先、そういうことが起こらないように導入されたんだよ。


※3……ドイツ年間ゲーム大賞のトレードマークはチェスのポーンを模している。赤のポーンはドイツ年間ゲーム大賞。黒はエキスパートゲーム大賞のマークとなっている。ポーンのイメージ画像はコチラ


――ドイツ年間ゲーム大賞としてカルカソンヌが選ばれた2001年からHANABIが受賞した2013年まで、振り返ってみてドイツ年間ゲーム大賞のノミネート作品はどのように変化しているでしょうか。


ノミネート作品は、その年ごとに、あらゆる面で違うよ。傾向のようなものはない。それぞれの年で、市場にどんなゲームが売られているのかによるからね。強い年もあれば、弱い年もある。ノミネートされてなかったゲームも、別の年に発売されてたら、すんなり「ドイツ年間ゲーム大賞」に選ばれることもあるかもね。もちろん、「HANABI」の受賞は、箱のサイズからして、非常に画期的な出来事になった。10年前ならありえないね。小さなゲームが受賞できるようになった、これが一番はっきりした変化かな。


――ドイツ年間ゲーム大賞の審査員はどのようにして選ばれるのでしょう。あなた自身はどのようにして審査員長になったのですか?


民主的な投票の結果だよ。ドイツでも、業界の関係者以外で定期的にボードゲームをレビューして回れるような人間は多くない。だけど、時々、新しい批評家たちが現れて有名になることがある。そうしたら、そういった人たちを審査員に推薦して、そこから現在の審査員が民主的なプロセスを通して選出するんだ。審査委員長も、推薦と投票によって決まるんだ。


――他のおもちゃ・ゲーム業界の賞で、あなたが認めているとかリスペクトしている賞というのはありますか?


僕は「ドイツ年間ゲーム大賞」を「業界賞」だとは思ってない。消費者の方を向いた「批評家賞」なんだよ。僕にとってこれは大きな違いだし、この賞が受け入れられている大きな理由の1つだよね。過去に、他の賞から一緒にやろうと言われたこともあったけど、実現しなかった。なぜなら、多くの場合、僕たちとは独立性に対する考え方や賞に対する哲学が違ったんだよね。僕も他の賞やそれぞれのやり方は尊重してるよ。だけど、正直言って、それって僕らの活動や審議には関係ないことだよ。審議に関係するのは、僕ら自身のゲームプレイだけなんだ。


――これまでドイツ年間ゲーム大賞の審査にノミネートされなかったり、推薦リスト入りしなかったゲームで、個人的に気に入っているゲームはありますか?


「キング・オブ・トーキョー」


――子供の頃のお気に入りのおもちゃやゲームはなんでしたか。


小さな紙に自分でカウボーイやインディアンのキャラクターを描いてね、名前を付けて、切り取るのさ。で、その人形でドラマティックな物語をやる、っていう遊びをしてたね。


――普段の日は何をしているんですか。


僕の生活にいわゆる「普段の日」というのはないよ。僕はジャーナリストだ。犯罪や裁判のレポートなんかの仕事が多いんだけど、旅行や車やゲームについて書くこともあるね。だから「普段の日」って言おうとすると、少なくとも5種類は「普段の日」があるね。1つめは、裁判の傍聴席座っている日。2つめは、情報収集のため人と話している日。3つめは、旅行中。4つめは、ゲームをする日、5つめは、ドライブとか車の試乗をする日。1年365日のうち、家で夜寝るのは150日以下じゃないかな。


――どのような場所で育ち、それは今のあなたにどのような影響を与えましたか?


僕は、カトリックの労働者階級の家庭で育ったんだ。スイスのチューリッヒに近い小さな村(山奥じゃないけどね)で、4人の姉妹と3人の兄弟と一緒だった。そうした環境で、人生で一番大切なことは人間関係だと学んだ。そして、無神論者になったんだ。


――これまで犯した失敗で1つあげるとしたら何ですか。そこから何を学びましたか?


毎日のように失敗ばかりしているよ。例えば、たくさん駄目なゲームで遊んでる。けど、それはやめられないんだ。だって、審査員としてはそういうゲームもやらなくちゃいけないしね。しかもいつも期待に満ちているんだ。そんなだから、何も学んでなさそうでもあるね。


――毎日何を読んでいますか。そして、それはなぜですか?


物凄くたくさんのルールブックを読むよ。あと少なくとも5紙の新聞を読む。それが仕事だからね。


――普段、あなたの役に立っているお気に入りのガジェットやアプリやソフトは何ですか?


ガジェットやアプリやソフトにはあんまり興味ないんだよね。僕はなるべくリアルな体験を心がけている。電子手帳さえ持ってない。いまだに、全ての予定は手書きで書いているんだ。びっくりするかもしれないけど、僕のケータイには一つもゲームアプリは入ってないんだ。


――ここ最近でとても笑ったのはいつですか。それは何ですか?


毎日声を出して笑ってるよ。時には自分に対して笑うこともあるしね。裁判のレポートなんかをやっていると、しょっちゅう死とか運命の厳しさ、悲しみに包まれることになる。こうした体験は普段と異なる大切な感情や人生の美しいところをむしろ楽しむようにすべきだと教えてくれるんだ。


――あなたに発想などで影響を与えているものは何ですか?


人だね。自分の頭で考える人。当たり前だからとか、いつも繰り返しているからとかの理由で愚かなことを信じない人だね。


(インタビュー記事終わり)


■最後に一言

このインタビューを読み、僕自身は審査員トム氏の「素朴さ」を強く感じた。電子手帳を持たず、ケータイでゲームをすることもなく、複雑なゲームからSDJを守るのだと語る彼の姿勢に、若干の違和感を感じた人も多いかもしれない。しかしこうした姿勢こそが、SDJという賞の特徴付けを行っていることもまた確かだろう。


ちなみに、こちらの原文記事にコメントが寄せられている。コメントの主はBruno Faidutti氏(『あやつり人形』の作者であるフェデュッティ氏本人だろうか)。コメント内容を粗く要約すると次のようなものである。


『ボードゲーム文化の敵は駄目なゲームでなく、むしろ良きゲームだ。市場に出回るほとんどのゲームは良いゲームであり、むしろ大量に良作があふれている事の方が問題である。かつてのようにベストなゲームを選ぶことは難しく、大量の良いゲームの中から特定のスタイルを選んでいるだけだ。』


なかなか面白いコメントだ。興味のある方は是非原文にも目を通していただければと思う。



■更新履歴


翻訳について、すばらしいご指摘をいくつかいただいたので、その指摘を元に以下の文言を修正しました。ちょっと分かりにくいですが、修正前と修正後の文言を並べるような形で記します。@EL_CO4twさんありがとうございました!また、@_kazuma0221さんもありがとうございました。

 

【2014.9.1】

(修正前)こうした新たな部門の追加は、市場の広がりに伴うものだと思いますか?

 

(修正後)市場が広がったら、また新たな部門が追加されるようなことがあると思いますか?

 


【2014.8.31】

(修正前)大事なのは、独立性、信頼性、批評への熱意だね。

 

(修正後)大事なのは、独立性、信頼性、そして情熱だね。

 

----

(修正前)侵略、戦争、暴力、そういうテーマについて、それがゲームを楽しむ上で必要なのか、適切なのかという話だね。

 

(修正後)侵略、戦争、暴力、そういうテーマがそもそもゲームを楽しめるテーマなのか、適切なのかという話だね。

 

----

(修正前)これだけは言わせて欲しいんだけど、エキスパート部門を創設した主な理由は、~

 

(修正後)1つ言わせてもらえば、エキスパート部門を創設した主な理由の1つは、~

 

----

(修正前)唯一関係あるとすれば、僕らも同じゲームをプレイするってことだけだろうね。

 

(修正後)審議に関係するのは、僕ら自身のゲームプレイだけなんだ。

 

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(修正前)笑うことは、それらとは異なる大切な感情を与えてくれるし、人生の美しい面を楽しむことを教えてくれるんだ。

 

(修正後)こうした体験は普段と異なる大切な感情や人生の美しいところをむしろ楽しむようにすべきだと教えてくれるんだ。

 

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(修正前)人だね。自分の頭で考える人。そして愚かなことを信じない人だ。愚かなことというのは、当たり前になってしまって、ただ繰り返されてきたことでしかないからね。

 

(修正後)人だね。自分の頭で考える人。当たり前だからとか、いつも繰り返しているからとかの理由で愚かなことを信じない人だね。

2014年7月 5日 (土)

【コラム】なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。

ボードゲームを遊ぶ際の仲良くやるための方法や手引きを示すわけではないです。ゲームとは、むしろそういうものではないか?ということについて、主に書こうと思います。




ボードゲームをはじめ多くのアナログゲームでは、ガチ勢とエンジョイ勢の対立というテーマが話題になることがある。この問題は、ボードゲームに限らないのかもしれない。インターネットを通じたマルチ対戦のビデオゲームにおいても同様の問題は発生するだろう。およそ人と人が交流する時には付いてまわる問題であり、あらゆる娯楽や趣味の世界においても取り沙汰されてきた問題のように思う。


このコラムでは、ゲームという世界の中に限り、この対立する両者は、むしろ既に分かり合う糸口に立っているのではないか、ということを示したいと思う。それはまさにゲームというものの特徴が、その対立を包み込んでしまうのではないか、ということだ。そんなわけはないとの反論もあるだろう。そんな妄想的で、お花畑的な話はないと。事実、様々な場所で「ガチ勢とエンジョイ勢の対立」は具体的な形となって問題化している。実際、喧嘩になったり、嫌な思いを経験した人もいると思う。僕自身もそういう経験はある。しかし、あえて、この夢想的な結論について可能性を示してみたいと思う。


では、この議論をするにあたって、ゲームとは何か、ということについて書かれたある論文を参照したい。それは次の論文だ。


『ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る』


この論文は、2003年にイェスパー・ユール(ジェスパー・ジュール)氏(Jesper Juul)により発表されたものだ。イェスパー・ユール氏はデンマークの著名なゲーム研究家だ。幸いなことに、これは日本語に翻訳されている(翻訳されたhallyさん、本当にありがとうございます)。既に書かれてから10年以上経った文章ではあるが、とても面白かった。本コラムでは、基本的にこの論文を参照しつつ話を進めたいと思う。


この論文は、過去に論じられた7つのゲーム定義(ホイジンガやカイヨワやクロフォードなど)を参照しつつ、ユール氏がゲームの特徴と言えるものを6つに整理して再提示している。彼が挙げるゲームの特徴とは、以下に挙げる6つである。


1.ルール
2.可変かつ数値化可能な結果
3.結果に対する価値の付与
4.プレイヤの努力
5.プレイヤと結果の繋がり
6.交渉可能な結果


ユール氏が掲げる上記6つのゲームの特徴のうち、1~5までは比較的納得しやすいく、理解しやすいのではないかと思う。ルールや結果や努力など、どの特徴についても、「確かにそれらはゲームの特徴っぽいな」と直感的に理解できるだろう(詳しくは当該論文を参照いただきたい)。しかし6番目の「交渉可能な結果」というのはどうだろう。その名前を見ただけでは何を言いたいのか少し分かりづらいのではないだろうか(ちなみに英語では"negotiable consequences"である※1)。


実はこのコラムで主に取り上げたいのは、まさしく、この少し分かりづらい特徴の「交渉可能な結果」である。まずは、この特徴について、説明するところからはじめてみよう。あくまで僕なりの理解であるので、色々と間違いがあるかもしれない。気付いた方は、よければご指摘いただけるとありがたい。


この特徴は、まず論文内で次のように説明されている。


『現実世界への影響を任意に割り当てることができるという事実は、ゲームを特徴づけるものである。実際の割り当てはプレイごと、場所ごと、対戦相手ごとに取り決められうる。』


この説明にあるように「交渉可能(negotiable)」とはつまり固定的であらかじめ決まっているものではなく「任意である(optional)」ということだ。任意な結果とはどういうことか。これはゲームで金やモノを賭けの対象にするケースを考えると分かりやすい。例えば、トランプの大富豪をやるのに、何も賭けずに単にその場限りの娯楽として楽しむ場合もあれば、それなりの金額を賭けての真剣勝負をすることもあるだろう。テニスの試合を趣味として楽しむこともあれば、より大きな大会への出場権をかけた選考会としてプレイすることもある。ゲームは、そのゲーム結果を現実世界の帰結として任意に割り当てることができる。そしてそういう任意に割り当てられる特徴を持つものこそをゲームの特徴だとユール氏は語るのである。


これは、逆に「交渉可能な結果」という特徴を有さない行為を考えると更に理解が深まる。例えばユール氏は「貴族的な戦争(noble war)はゲームではない」という例を挙げる。貴族的な戦争とは、例えばジュネーブ条約を遵守するような形で行われる一定のルールに従った戦争を指す。これは1~5に挙げるゲームの他の特徴を十分に満たしている。しかし、実際に、戦争をゲームだと語ることに抵抗を感じる人は多いだろう。それは、戦争というものが、ゲームの6つ目の特徴である「交渉可能な結果」を欠いているからだ。つまり戦争というのは決して任意に現実世界の結果へと結びつけることはできない。戦争は、時に非情で、決定的で、のっぴきならない結果(死、傷害など)へと結び付けざるを得ない。それゆえ戦争はゲームとは言いがたいのだ。


このユール氏の説明がとても素晴らしいのは、僕たちが戦争をゲームのように考えてしまいがちな理由と、そして、それへの違和感を同時に説明できるからだ。僕たちが戦争をゲームのように考えてしまいがちなのは、1~5のゲームの特徴を有しているからに他ならないし、そしてまさに戦争をゲームと捉える違和感が、6つ目の特徴を排除していることによるものだという説明を施すことができる。


では、どのようなゲーム的行為が「交渉可能な結果」を持つのだろうか。それを、ユール氏は次のように語る。


『ゲームの結果を対価交渉可能なものにする唯一の方法は、ゲームのプレイを圧倒的に無害なものにすることであり、そのために必要な運用と手段を用意することである。』


ゲームプレイが無害なものになることで、それはゲームになる。このことは次のような例を考えると分かりやすいだろう。剣の稽古というのは、かつて木刀を用いていたと言われている。木刀は日本刀のように斬れないとはいえ、あんなものを振り回していては、大怪我や死亡事故に至ることもあっただろう。それは交渉の余地のない決定的な結果となる。しかし、竹刀が発明され、剣道の防具が発達することで、その行為は圧倒的に無害になっていった。こういう流れの中で剣道はようやくゲームとしての特徴を帯びたと言えるだろう。


※1……リンク先の翻訳記事では"negotiable"に「対価交渉の可能な」との訳語が当てられている。この訳語はおそらく現実世界(real-life)の事物との交換可能な関係を強調するため用いられているのだろうと思う。今回論文内の文章を引用する際は、翻訳記事をそのまま引用した。しかし、"negotiable consequences"という単語を単独で取り上げる際は、「対価」という言葉が様々なニュアンスを含んでしまうことを考慮して、素朴に「交渉可能な」との訳語を当てた。


■ガチとは何か?


ここまで記したユール氏の説明を見ると、確かにゲームというのは任意に現実世界の結果へと結びつけることができるものだということが理解いただけるのではないかと思う。これを本コラムの冒頭で示したガチ勢・エンジョイ勢の話に展開してみよう。


ボードゲームの世界でのガチ・エンジョイの話題において、とりわけ多くの人にとって印象が悪いのが、ガチ勢による初心者へのいやがらせ行為だ。「早くやれよ」とか「そんな手はありえないだろう」などの手厳しいコメントにとどまらず、時には人格を傷つけるような言葉の暴力が問題になる。これを先ほどの「交渉可能な結果」という考え方を使って言い換えるなら、相手の人格を攻撃したり、相手を極度に不快にさせる行為は、現実世界への影響として、重大な結果を与えてしまうことだと言える。つまり、それは喧嘩になり、殺し合いになり、戦争になってしまう。まさにゲームではなくなってしまうということだ。


では、こうした不幸を避けるために、ゲームというのは(結果も含め)現実世界に影響を与え「ない」無害であるべきものであろうか。僕はこうしたアンチパターン的な発想が実は話をややこしくしていると考える。確かにゲームプレイが無害であることは、「交渉可能な結果」という特徴を持つためには重要である。しかし、僕はユール氏がゲームを「無害なもの」ではなく「現実への割り当てが任意なもの」としたことに大きな意義があると考える。なぜこんな回りくどい言い方をするのか。それはこういう言い方のほうが、ゲームというものを説明するに当たって、言葉としての解像度が高いからではないかと思うのだ。


逆に考えてみてほしい。僕たちが時に陥るのは、ゲームは楽しみのためのものであり、所詮、気晴らしでしかない、現実的には無駄なものでしかないというニヒリズムではないか。実はこういうニヒリズムに対しても、「交渉可能な結果」というゲームの特徴は突き刺さってくると考えられないだろうか。


■エンジョイとは何か?


具体的に考えてみよう。僕たちは、悪しきガチ勢がいることを想像できるように、悪しきエンジョイ勢を想像することもできる。ゲームの結果を軽く捉えることができる人は、見ようによっては、とても冷静にゲームを遊んでいる大人な態度にも見える。その一方で、勝ち負けに拘らないことが、時にルールの軽視や一生懸命になる人への嘲笑やゲームへの破壊につながることもある。それがたった1回のゲームの範疇を超えてしまったら、結局のところ、ゲームの現実的な影響への固定化につながるのではないか。例えばゲームの勝敗結果が恒常的に「無価値化される」ことによって、現実世界への影響の「任意性」が、ガチの場合とは逆の意味で失われてしまう。勝利を目指さないプレイヤーが時にゲームを破壊してしまうことがあるように、そのことは単に冷笑的であるだけでなく、そうした「現実への割り当ての任意性」をも脅かしていると考えられるのではないか。


もちろん「わたしはそんな態度は採らない!」と反論したくなる人も多いだろう。しかし、ここで問題にしているのは、「お前はエンジョイ勢だ」とか「ガチ勢は怖い」というレッテル貼りではない。むしろ、ゲームがゲームであることにとって重要なのは、様々な現実世界への影響をまさに「任意に」決定できるための合意形成の必要性。そうした合意形成のプロセスを経なければ、理想的なゲームをプレイできないという点にある、ということだ。これはガチに遊ぶときにだけ必要になるのではない。ただ楽しく遊ぶ(エンジョイ)ためにも、ガチにならないための合意形成が実は必要なのだ。


誰もが本当は分かっている。エンジョイが悪い、ガチが悪い、ということでは「ない」ということを。その前提となるゲームへの参加のプロセスの問題だということを。それはまさにゲームをゲームたらしめる特徴に関わるものではないだろうか。※2


※2……この特徴は、実際のところ6つめの「交渉可能な結果」だけでなく、5つめの特徴である「プレイヤーと結果のつながり」に関係するものであると思う。


■合意形成プロセス


ゲームは楽しければいいという前提も、ゲームは自分達の実力を余すところなくぶつけ合うべきだという前提も、それ自体が誤りではない。それらを「正解」として固定化することこそが、ゲームをゲームでなくする始まりなのかもしれない。ゲームには必ず勝敗がある。それは決して無害ではありえない。それを適切に、その場その場に応じて受け入れるためにも、合意形成という非常に人間くさいシステムを通さなければならない。それは一朝一夕に答えが出るものではないし、ある特定の手続きに沿えば、それだけで答えの出てくるものではない。ユール氏はそれを水質テスト(a testing of the waters)のようだと語っている。一つ一つ試していくしかない。


合意形成プロセスは、確かにすぐにでもゲームをしたい人間には煩わしい手続きに思える。しかしそのプロセスは、ゲームがゲームであるためにはそもそも必要な手続きなのだ。よく見知ったクローズドな友達同士の集団であれば、それを省くこともできるだろう。しかし、そうでないオープンな集団で遊ぶ時には、その当たり前のプロセスの必要性がもう一度浮かび上がってきてしまう。当たり前のことに思えるからこそ、それはとても難しいことでもある。しかし、その難問のスタートラインにゲームプレイヤーは立てている。なぜなら僕たちは、殴りあいでも殺し合いでも茶番でもなく、ゲームがしたくてそこに集うからだ。


最初に、僕は、エンジョイ勢とガチ勢がわかり合うことは、「お花畑的」だと自嘲的に語った。しかしこうも思うのだ。『エンジョイ勢やガチ勢というのは、他人が端的にそうであるわけではなく、自分という1個の人格の中にもエンジョイ勢とガチ勢とが同居しているのではないか』と。ほとんどの人が、ある1つのゲームをエンジョイ勢として楽しんだこともあるだろう。また、ガチ勢として熱中したこともあるだろう。賭けの対象にしたことも、パーティの余興としたこともあるだろう。子どもの時に夢中になったゲームに、大人になった今も(別の形かもしれないが)楽しめてしまうことがある。それらは、現実世界への影響において伸縮性のあるものとして、その愛すべきゲームがゲームであり続けてきたからではないか。わたしがガチ勢であり、同時にエンジョイ勢である可能性。それを同時に許容するものこそゲームではないのか。


僕たちが一つのボードゲームを囲む時、それはゴールにいるのではなく、分かりあうため、交渉するための端緒として、同じゲーム卓に向かい合うのだろう。そして、交渉すべき相手は他人だけではなく、自分でもあるのかもしれない。

2013年12月11日 (水)

【コラム】ライナー・クニツィアと宮本茂が同じコトを言っているという話~『ルールズ・オブ・プレイ(上)』を読んで

最近ようやく『ルールズ・オブ・プレイ(上)』という本を読み始めた。ゲームデザインの基礎を著した本として、以前話題になった本だ。ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンの共著になるこの本は日本語訳として2011年に刊行され、今年(2013年)に日本語訳の下巻が発売となった。(ちなみに本国アメリカでは2003年に出版された)

今頃読み始めるのは、ずいぶんと周回遅れな感じだが、読んでいる今の感想としてはめちゃくちゃ面白い。僕はゲームを作ったりはしないのだが、プレイヤーの立場で読んでも興味深い事柄が色々と書いてある。そんな僕が、今回、この本を読んでいて、たまたま二人の偉大なゲームデザイナーが同じようなことを言っていることに気がついたので、少し書いてみたいと思う。その二人とは、任天堂の宮本茂氏とボードゲームデザイナーのライナー・クニツィア氏だ。宮本氏は世界的に有名な「スーパーマリオブラザーズ」の産みの親であり、クニツィア氏は「チグリス&ユーフラテス」や「ラー」など数々の名作ボードゲームを生み出した、こちらもボードゲーム界における巨匠だ。

さて、ではどういうことについて同じ話をしているのか本題に入りたい。それは「アイデア」という言葉についてである。

■アイデアとは何か?

この言葉を聞いてピンと来たテレビゲーマー(任天堂ファン)も多いと思う。というのも任天堂の岩田社長は大層この話がお気に入りらしく、何度もネット上で同じ話が登場しているからだ。特に任天堂ホームページで連載されている『社長が訊く』というゲーム開発者と岩田社長の対談では、度々この話題が上っている。知っている方も多いとは思うが、どういう話であるのか、簡単に振り返りたい。

2007年の岩田社長と糸井重里氏との対談で、この話が非常に丁寧に紹介されている。開発者の宮本氏と長らく仕事をしてきた岩田社長は、あるとき、宮本氏がアイデアというものを次のように考えていると気づいた。「アイデアとは、2つ以上の問題を同時に解決する発想だ」と。この定義が極めてアイデアというものを上手く表現していると岩田社長は考えた。リンク先にもあるが、その話を聞いた糸井氏の次のようなたとえ話が大変分かりやすく面白い。

「つまり、佐藤くんの命が危ないというときにさ、代わりに永田くんが死んじゃうような方法ならわりと簡単に思いつけるんですよ。」

---「アイデアというのはなにか?」- ほぼ日刊イトイ新聞

要は、ゲームに限らず様々な仕事でもそうだと思うが、「アイデア」が求められている時というのは、たった1つの問題を単に解決したい時ではない。確かに、目の前の問解をただ解決しようとすることを「アイデア」とは呼ばない。仕事で使うPCが壊れた時に、そのPCを交換することを問題解決のためのアイデアとは言わないだろう。しかし、例えば、その交換のためのPCを買う金を捻出できない状況が発生した時に、「アイデア」が求められる。

この「アイデアとは2つ以上の問題を同時に解決する発想だ」という定義を最初に見たとき、僕は非常に強い感銘を受けた。そして、なぜアイデアというのは視野が広くなくては生まれないのか、そしてなぜ誰でも思いつくわけではないのか、ということがようやく腑に落ちる気がした。

■1つの問題を解決する方が難しい

さて、一方、『ルールズ・オブ・プレイ(上)』には、ボードゲームデザイナーのクニツィア氏のエッセイが掲載されている。このエッセイはクニツィア氏の『ボードゲーム版 指輪物語』の製作ノートである。実はこのエッセイ、ほぼ同じ内容の日本語訳がこちらのサイトにも載っているので、本をお持ちでない方はそちらのサイトを見ていただければと思う。

このエッセイで語られるところによると、クニツィア氏は『ボードゲーム版 指輪物語』の製作途中に2つの難問を抱えていたそうだ。それは「もっとガンダルフをゲームに登場させたい」という問題と、「楯チップに(勝利点の目安という意味だけでなく)他の目的を持たせたい」という2つの問題であった。クニツィア氏は最終的に、「ガンダルフデッキ」という特殊なデッキを導入することで、その2つの問題を同時に解決したと言う。そして、次のように語っている。

「2つの問題を同時に解決しようとするよりも、1つの問題をなんとかしようとするほうがかえって難しいことがあります。」

---『ルールズ・オブ・プレイ(上)』P45

これは非常に興味深い言葉だ。「アイデア」という単語こそ使われていないが、このクニツィア氏の言葉は「1つの問題ではなく、2つ以上の問題を解決する」という構造において、宮本氏のアイデアの定義と同じである。しかし興味深いのはそこだけではない。先の宮本氏の定義の話の際に、糸井氏は何と言っていたか。「どちらか一方だけを助けるのは簡単なんだ」と語っていた。

そう、クニツィア氏は「2つの問題を同時に解決したほうが簡単だ」と言い、宮本氏の話を受けた糸井氏は「1つの問題を解決するのは簡単なのだ」と言っている。

この2つは別のことを言っているのだろうか。もちろんだが、そうではない。糸井氏は「永田くんに死んでもらって佐藤くんだけを助ければ、それでいい」ということを言っているのでは当然ないからだ。ここで糸井氏の言葉を補完するとすれば、次のように言い換えることができるだろう。「永田くんを犠牲にして佐藤くんだけを助けるという発想は安易(=簡単)であり、どちらか一方だけを助けただけでは、通常『問題が解決した』とは言えない。」

つまり、宮本氏の「アイデアとは2つ以上の問題を同時に解決する発想だ」という言葉は、単に「より良いアイデアとは何か」というような「アイデアの質」の問題の話をしているのではない。むしろこの定義はずっと切実な問題に触れている。それは「問題をミクロに捉えて、単純にその問題だけを解決しても、マクロな視点での問題は全然解決していないかもしれない」ということだ。対談の中で岩田社長が語る飲食店の例(客が「量が多い」と文句を言ったときに、本当の問題は「量が多い」ことではなく「まずい」ことなのかもしれないという話)はまさしくこの切実な問題を指していると言えるだろう。

■「意味ある遊び」とは?

実を言うと、こうした考え方は『ルールズ・オブ・プレイ(上)』という本の内容にも通じている。『ルールズ・オブ・プレイ(上)』には「意味ある遊び」という言葉が重要なキーワードとして出てくる。ここで「意味ある(meaningful)」とはどういうことか。端的に説明すると、これは「ある行動が何らかの結果を引き起こす」という関係を指している。では、この「意味ある」ということをどのように評価すればいいのだろうか。この本は、評価基準の1つとして「統合されているかどうか」が基準になる、と語る。つまり、ある一つの行動と結果の関係が単に部分として作動するのではなく、大きく全体と関連を持つこと、即ち「統合されていること」がゲームをより「意味ある遊び」にするというのだ。次に引用した文章が具体的な例を示している。

「『チェス』は奥深くて意味あるゲームだ。なぜなら、序盤の微妙な手が、中盤の込み入った手筋にもろに反映されて、中盤のゲームが終盤の余力と勢いのある戦いへとつながってゆくからだ。」

---『ルールズ・オブ・プレイ(上)』P61

こう考えると、宮本氏のアイデアの定義の話だけでなく、クニツィア氏の「2つの問題を同時に解決したほうが簡単だ」という言葉も違った様相を見せる。この言葉は単に問題解決のためのプラクティカルなアドバイスなだけではなく、遊びとしての意味を減じてしまうような解決策はむしろ害悪だと暗に言っている。彼の言葉は「一つの問題を単にそのまま解消するだけでは、意味のない遊びを作ってしまうかもしれない」という危険性を語っているのだ。まさしく、クニツィア氏は同じエッセイで続けて次のように語っている。

「つまり、デザインにまつわる個別の問題を解決することは、なにもその問題だけに関わることではなくて、理念の上では、そのゲームの遊び全体に波及するということです」

---『ルールズ・オブ・プレイ(上)』P45

この文章が語るとおり、クニツィア氏の「1つの問題をなんとかしようとするほうがかえって難しい」という言葉は、安易に「意味のない遊び」を作ってしまうことを避けるため、「統合されていること」の必要性について言及しているのだと言える。(それゆえ、このエッセイが、本の中のこの位置に挿入されることで、次章「意味ある遊び」の予告編にもなっている)。そしてその点において、まさしく宮本氏のアイデアの定義と重なるのである。二人が単に「似たような話」をしているのではなく、まさしく同じコトを言っていると僕が思うのは以上のように考えるからだ。

■アイデアの美しさ

さて、宮本氏のアイデアの定義を「発掘した」岩田社長は次のような更に興味深い分析をしている。

「そういうもの(=いいアイデア)を見つけることこそが、全体を前進させ、ゴールへ近づけていく。ディレクターと呼ばれる人の仕事は、それを見つけることなんだって宮本さんは考えているんですね。」()内は引用者の補足

---「アイデアというのはなにか?」- ほぼ日刊イトイ新聞

これはまさしく「意味ある遊び」としてのゲームにとって、(複数の問題を一挙に解決する)アイデアは、単にあったほうがいい要素なのではなく、むしろゲーム製作においてゴールに至るために必要な要素であると言っている。逆に言えば、ゲーム製作において立ち上がる「問題」と言うのは決して「単数形の問題」なのではなく、「複数形の問題」として存在するのだと。そういう認識を持たなければいけないということではないだろうか。

二人の偉大なゲームデザイナーがいみじくも同じようなことを語っているのは、おそらくそれがゲームデザインに必要な根本的な事柄だからだろうと想像する。僕たちが何かのゲームを遊んでいて、思わず「美しい」と思ってしまうことがあるのだとしたら、それは、そんな「アイデア(Idea)」に触れているからからもしれない。そんなことを夢想するのもまた、ゲームの1つの楽しみ方であるように思う。


★参考リンク



・複数の問題を解決するアイデアが言及されている◆任天堂HP「社長が訊く」◆の記事。


2013年9月28日 (土)

【コラム】放課後さいころ倶楽部に見る「ゲームからの逸脱と回帰」

書いてる本人は大真面目なんですが、記事の内容をそれほど真剣に捉えないでいただければ幸いです。

2013年9月。ボードゲームをテーマにしたある漫画が発売された。ボドゲクラスタのツイッターはその話題で一色になった。放課後さいころ倶楽部だ。ゲッサンを立ち読みした時は女の子がキャッキャする漫画というイメージだったので、ノットフォーミーと思いスルーしていたのだが、単行本の評判がとても良いので、Amazonで注文して読んだ。読んでみてびっくりして、反省した。面白かった。

本記事では、この単行本に納められている1つのエピソードを主題的に取り上げたいと思う。それは第4話、第5話の2回に渡って描かれたエピソードだ。放課後さいころ倶楽部では、各エピソードで1つのアナログゲームが扱われる。このエピソードは名作ごきぶりポーカーを扱っている。僕はこのエピソードがこの一巻の中でもっとも優れたエピソードだと思っている。というのも、この回は単なるほんわかラブコメディなのではなくて、ボードゲームの持つ秘められた魅力を鋭く抉り出していると思うからだ。なぜ素晴らしいと思うのかその理由を以下に長々と述べてみたい。

ちなみにこの記事はネタバレ満載なので、その点はご留意ください。


■放課後さいころ倶楽部のあらまし


読んだことがない人のために、簡単に放課後さいころ倶楽部のあらましを紹介する。主な登場人物は次の3人だ。まず、主人公の女子高生・武笠美姫(ミキ)。彼女は引っ込み思案で、内気な少女だ。クラスのみんなともなんだかなじめず気づくと一人でいる、そんなタイプの子だ。そんなミキのクラスに一人の転校生がやってくる。高屋敷綾(アヤ)だ。アヤは、とても破天荒で自由な性格。大人しいミキを翻弄するが、次第にアヤの屈託のなさに感化されてミキは心を開き、アヤと仲良くなっていく。そして、アヤとミキのクラスにいる委員長である大野翠(ミドリ)。彼女はカタブツで真面目。校則にもうるさい成績優秀な優等生だ。そんな3人を中心に物語は進んでいく。

ある日の放課後、アヤとミキがカフェでおしゃべりをしている時に、優等生のミドリが繁華街へ歩いていくのを目撃する。そしてミドリはそのまま怪しい雑居ビルに入っていく。不審に思った二人が尾けていった先、雑居ビルにあったのはなんとアナログゲームショップだった。ミドリはそこで店員としてバイトしていたのだ。生真面目な委員長ミドリの裏の顔を知った二人は、そのことをきっかけにボードゲームの世界にはまっていく。

今回取り上げるエピソードはそんな3人が放課後にカードゲームを遊ぼう、というところから話は始まる。そのカードゲームがごきぶりポーカーだ。

このエピソードでは上記のメイン3人とは別にもう一人のキャラクターが登場する。田上翔太という委員長ミドリの幼馴染だ。彼は、転校生のアヤに一目ぼれをしてしまい、アヤと仲良くなりたくて、そのごきぶりポーカーに参戦することになる。

ごきぶりポーカーは心理戦のゲームだ。嘘をみやぶるゲームである。しかし転校生アヤはものすごく嘘をつくのが下手だ。そのため、翔太は好きな相手であるアヤの嘘を簡単に見破ってしまう。

しかし翔太としてはそれは不本意なのだ。もちろんそれは、好きなアヤを自分がやっつけてしまうと、印象が悪くなって嫌われてしまうかもしれないと悩むからだ。これは分かりやすい。誰も好きな相手をコテンパンにやっつけたいとは思わない。彼は一人その孤独な心理戦を戦うことになる……。

以上がこのエピソードの要旨だ。さて、次からが僕の考察(妄想)だ。


■ゲームを楽しむための条件「逸脱」


先ほど挙げた不本意とは別に、実は翔太の不本意さにはもう一つの側面があると僕は考える。それは別に勝っても嬉しくないということだ。なぜなら、ごきぶりポーカーは嘘を見破ることを楽しむゲームだからである。しかし、アヤがあまりにも分かりやすい嘘をつくため、翔太は嘘を見破る権利(=楽しむ権利)を剥奪されている。これがもう一つの翔太の不本意の側面だ。

この見破る権利を剥奪するという事態は、何も分かりやすい嘘をつくアヤのようなケースでのみ発生するわけではない。例えば完全にランダムな手を出すケースでも発生する。

ごきぶりポーカーというゲームが面白いのは、人間がゲームの仕組みの一部になるからだ。仕組みと言っても人間は決してランダマイザーとしてゲームに組み込まれているわけではない。人間はサイコロの目とは違う。カードを見ずに「これはごきぶりです!」とランダムに宣言するような遊び方をしてしまうと、そのゲームを楽しむ権利を奪ってしまう。

なぜ楽しむ権利を奪ってしまうのか、それは端的に言うとゲームのルールを越えることができなくなるからだ。普段つけない嘘をつく背徳感を感じ、その背徳感を見破る面白さを楽しむ。それはルールが直接語らないゲームの仕組みであり、ゲームのルールを逸脱した場所であるからだ。このルールが直接語らない場所(=ゲームから逸脱した場所)にこそ面白さがある。「たとえゲームとして成立していても面白いとは限らない」のは、このルールが直接語る場所から逸脱できないからなのだ。

もう少し詳しく考えよう。「嘘をつく」ことをルールは厳密に規定できない。そう聞いても、そんなことはないと思うかもしれない。別ゲームだが、たとえばいかさまごきぶりで、蛾のカードを出す時に絶対に嘘をつかなくてはいけないというルールがある。ルールは「嘘をつくこと」を規定できているじゃないか、そう思うかもしれない。

しかし、実はこれは「嘘をつくこと」がルールなのではない。「カードの内容と違うことを宣言すること」がルールなのだ。「嘘をつく」ということは、単に「事実と違うことを言う」ことではない。そのことは「言い間違え」と「嘘」とでは何が違うのか、を考えてみると分かりやすい。この違いを人間は直感で理解できる。しかしルールブックはその違いを厳密に規定することができない。それを判断し遊ぶことができるのは人間だけだ。人間だけがゲームのルールを逸脱し、逸脱したところ(言い間違えの差異)に面白さを感じる。

僕はこのことがブラフゲームにだけ関わることではないと考えている。放課後さいころ倶楽部のエピソードが秀逸であるのは、それを明らかにしている点にある。つまりあらゆるボードゲーム、アナログゲームの面白さの1つとしてゲームからの逸脱があるのだ。

たとえば、このゲームがごきぶりポーカーでなく、カタンだったとしよう。翔太の隣にアヤが座っていたとして、アヤが無防備に持つ資源カードが(角度が悪いのか)丸見えになっている。翔太は、別に見たくもないのに、アヤの持っているカードが見えてしまう。翔太の悩みは、ここでも同じだろう。アヤの持ち札が分かってしまうからこそ、どのように交渉すればいいか、どこに盗賊を置いたらいいかは他のプレイヤーよりも正確に判断できてしまう。不幸はそこにある。

勝ちたいけど、勝てることが決まった世界では、誰も勝ちたくはない。勝つことを楽しむためには「勝てるかどうか分からない」ことが条件になる。勝てることが予め決まっているゲームはそれ以上逸脱できない。それは単なる手続きになってしまう。

だから、ごきぶりポーカーでも翔太は楽しめない。ゲームを楽しめてはいない。ゲームはアヤの関心を買うための手続きになってしまう。しかし、このエピソードは最後に大逆転を用意する。なんと最後の最後で、翔太の意図が完全に外れてしまうのだ。圧倒的に有利だったはずの翔太。彼はまったく予想だにしない「敗北感」を味わうことになる。それは単なる負けではなく、初めてゲームのルールを超えて「逸脱」した先を考えたようとした結果、苦汁を味わうこととなった。とても皮肉なラストだった(どういうことが起きたのかは未読の方はぜひ実際に読んでほしい)。

しかし、これがゲームだ。こうした「裏目」が出ることがゲームの面白みなのだ。ゲーム終了時にはがっくりとした翔太が描かれる。しかし翔太は苦汁を飲むことによって、ようやく楽しむ権利を取り戻したのだ。それまでの翔太は自分が把握している世界が完全なものだと思い込んでいた。しかし、本当はもっと世界は広かったのだ。狭く閉じた世界を更に逸脱するもっと広い世界(ルール)があることを身を持って知ったのだ。

この世界が広がる感じ。今まで見えていた世界が刷新される快感が多くのボードゲームファンを魅了してやまない快感ではないか。僕たちはそれを「より深くゲームを理解した」などと表現する。この世界のルールが変わる瞬間の面白さ、当たり前の世界が一瞬にして姿を変える面白さ。このエピソードは、ラブコメを絡ませることによって、ボードゲームで日常的に発生する世界のルールが変わる瞬間を表現している。翔太の落胆は、ボードゲーマーの「世界のルールが変わる快感」のネガポジ反転した姿なのだ。

しかしだ。ここで疑問が生じる。「逸脱すれば面白いのか?」という疑問だ。ゲームを逸脱すればいいのであれば、それはある意味単純だ。無茶をすればいい。破天荒なことをすればいい。そして、実際にそれは刹那的に確かに楽しい。むちゃくちゃな一手を打つとか、明らかに不合理な手を打ってみるとか。「月下の棋士」の初手9四歩みたいな、そういうことをして場が盛り上がるのは、実はこのルールが刷新される面白さと通低しているところがある。パーティゲームなどで誰かが無茶をやって「あー、そういう楽しみ方もあるかな」と思うのは大抵これだ。しかし、こういう無謀さ逸脱とは少し違うものとして語りたい。では、一体何が違うのか。

なんと、放課後さいころ倶楽部の第5話が真に凄いのは、この疑問にも答えている点にある。それがどこにあるかを次に見てみたい。


■ゲームを成立させるための条件「フリ」


まずそもそも、ここでのごきぶりポーカーは破綻するはずだった。なぜならアヤは嘘が完全にばれる人であるからだ。ごきぶりポーカーをやったことがある人はよく分かるが、このゲームは一人負けを決めるゲームである。だから、嘘をついていることが100%分かるような人が一人でもいるとゲームは破綻する。もはやカードを差し出すだけの作業になってしまう。

では、なぜゲームが成立しているのか。それは翔太がアヤのことが好きだからだ。嫌われたくないからである。だから翔太はゲームを成立させざるをえない。アヤの下手な嘘を指摘して「お前の嘘、完璧に分かるよ」と言って、ゲームを破綻させることはできない。そして破綻させないだけでなく、自分も負けたくないため、翔太は自分なりの心理戦というゲームに参加せざるをえない。ここで、破綻するはずだったゲームが一転してすごく真っ当に進行しているゲームとして成立することになる。

翔太は自分が負けず、かつアヤを負かさないために、「パスをしてやり過ごす」という作戦を立てる。そしてゲームは「外見上」とても平常運転しているように見える。ここで重要なのは翔太はアヤの嘘を見破れるというチート行為を封印している点だ(文字通りチートではないのだが)。翔太はアヤの嘘を見抜けないフリをして、アヤの嘘を見抜けなかった世界でもあり得るストーリーを再構築しようとしている。

この分からないフリをするというのがとても凄い。これが描きだされただけでも、この漫画はボードゲーム漫画として凄い価値がある。なぜなら実はこのフリというのがボードゲームの日常で凄くよく見られる現象の1つだからだ。

たとえば、あなたがカルカソンヌをインスト(説明)するとしよう。インストする相手は全員ボードゲームの初心者でカルカソンヌも初体験だ。あなたは単にインストするだけではない。できればカルカソンヌを、そしてボードゲームを好きになってほしいと願っている。ルールを一通り説明し終わって、ゲームが開始する。あなたは経験者であるから強い。当然破格に他のプレイヤーよりも強い。おそらく最善手と思われる手がいくつか頭に思い浮かぶ。「あのタイルはもう出切っているから、ここに道を置けばきっとこの都市は完成しないな」とあなたは冷徹に計算する。しかしだ。そういう最善手をあなたは打たない。そして次善の手、次々善の手を打つ。初心者を殺してしまわないために、あなたは最善手が分からないフリをする……。

こうした経験はないだろうか。おそらく長くボードゲームをプレイしていれば、似たような経験をするのではないかと思う。これは全く翔太のやっていることと違わない。翔太のやっていることは決して特殊な行為ではない。翔太の姿はボードゲーマーの姿でもあるのだ。

こうしたフリをすることで重要なのは、本当のことを言わないということだ。それは翔太がアヤのバレバレの嘘を明言しないことと同じだ。彼は取り繕う。ゲームを取り繕い、真っ当に進行しているように見せかける。絶対に言わないのだ、本当は知っていることを。さも知らないことが当然であるように成立させる。そうした世界を作る。


■次もゲームを楽しむための「回帰」


しかしこうした行為こそが、先ほど挙げたゲームからの無謀な逸脱への抑止力となる。

なぜ無謀への抑止力となるのか。その理由を語るため、もう一人のキャラクターに焦点を当てよう。実は翔太とは別に、もう一人フリをしているキャラクターがいるのだ。それは委員長キャラであり、最もボードゲームに精通しているミドリである。彼女は(別エピソードだが)冷静にモノローグでこう語る。「他人の心なんてそう簡単に読めるものじゃないし…」。これも本当のことであり、疑いようのない真理だ。しかし彼女はそれを表立って語らない。なぜなら、そう語ることで、ごきぶりポーカーというゲーム、ひいてはブラフゲームは成立しなくなるかもしれないからだ。彼女の真理は「分からないことをお互いに当てあって何の意味があるの?」という虚無に陥る危険な真理なのだ。だから彼女はゲームを成立させるギリギリの論理だけを展開する。たとえば「初心者が『カメムシ』なんて…とっさに出る名前じゃないわ。嘘をつく時はゴキブリとかハエとか覚えやすい種類を言うものよ」と。

彼女はこれがある程度の妥当性はあるが、あらゆる場面で通用する真理だとは捉えていない。本当の真理はモノローグでしか語らない。逆に言えば、本当のことを知らない「フリ」をする。それが真理ではないと分かっているのに、あえて100%の真実でないことを口にする。なぜ妥当な仮説は口にするけれど、真理は口にしないのか。それはゲームから逸脱しすぎてしまう危険性があるからだ。逸脱して虚無に陥ることなく、ゲームの世界に戻ってこれることだけをミドリは語っているのだ。

ゲームの世界が一瞬にして変わる逸脱の快感。しかし、それはルールの中に再び回帰することで、遊ぶことが継続可能になる。単なる無謀さが一時的には楽しくても、時が経つと空しくなってしまうのはこの点にある。逸脱によってゲーム世界が変わる瞬間が色褪せないとしたら、ちゃんとゲームの世界に帰ってこれるからだ。この相互反転するダイナミズム、ちゃんと帰ってこれることが必要なのだ。経験者がルールを深く理解するたびに、心の中のルールブックを厚くしていく。厚くなったルールブックという結果が面白いのではない。その過程を繰り返すことができるダイナミズムこそが面白いのだ。チート(インチキ)が虚しいのは、帰ってくることも、それ以上逸脱することもできない虚無に陥いるからだ。

翔太はフリをしていた。彼のフリによってゲームは成立していた。と、同時にミドリもフリをしている。彼女は人間の心なんて分かるわけがないと知っている。しかし、そのことを知らないフリをしてゲームに参加し、ゲームを成立させる。そして翔太の嘘をもっともらしい理屈をつけて見破る。しかし彼女は知っている。それは完璧な理屈ではないことを。ミドリと翔太のフリに違いがあるとしたら、それは次のことだ。フリの背後にある真理がゲームに回帰できる可能性を保持しているか否か。この点である。だからミドリは先ほどの真理のすぐ後にこうも語るのだ「相手が人である以上このゲームに必勝法は存在しない」と。(※)

翔太の心の中のごきぶりポーカーのルールブック(真理)は更新をやめていた。翔太はゴールにたどり着いていた。それ以上考える必要はないところにいた。なぜならアヤの嘘は明白だからだ。だから本当であれば、翔太はゲームの楽しさも深さも知ることがなく、そのゲームを単純に終わらせていただけかもしれない。

しかし、ここで奇跡が起きる。その奇跡の大逆転によって彼は「幸運にも」挫折することができた。その奇跡によって彼はまた心のルールブックを更新することができた。天使のように正直者のアヤでも、その真意が100%見抜けるわけではない。そんな新しいルールを得ることができた。そのことで再びゲームが成立する世界に帰ってきたのだ。だから彼は幸運なのだ。

一方で、仮にアヤの嘘がバレバレであることを翔太が口に出してしまっていたらどうだろう。その時点でゲームは破綻し、こうして翔太のルールブック(世界)が更新されることもなかっただろう。翔太のフリ逸脱は相補関係にある。彼はフリを続けたおかげで、この逸脱して回帰する地点にまで到達できた。

僕たちの経験でも同じではないだろうか。ついさっきインストしたはずの初心者が思いもよらない巧手を打ち、思わず感嘆してしまう。あなたがもし感嘆したのなら、いわずもがな初心者は自らの一手に感動することもあるだろう。こういうことがあるからフリは重要なのだ。初心者に本当のことについて講釈を垂れることは虚しく、むしろフリによってゲームを成立させることの方が遥かに意義深い。僕たちは分かっていないフリをする。しかしそれはフリではなく本当に分かっていないのかもしれない。フリによってその可能性を残しておくことができる。残しておく必要がある。フリのおかげで、今の世界を更新できるのかもしれない、まさしく翔太と同じように。僕たちの分かっていないフリは別に偉くともなんともない。挫折する前の翔太のようにゲームを舐めきってしまわないための、むしろ無知の知という保険なのだ。

破綻するはずのゲームがなぜ成立し、そしてなぜ最後には翔太までが楽しむ(=悔しがる)ゲームになったのか。この逸脱と回帰のダイナミズム。その大きな流れが一本の物語としてこのエピソードに集約されている。このエピソードがずば抜けて凄い話であると僕が考える根拠である。

ところで、以上のように長々と語ってきたような拡大解釈がなぜ可能なのだろうか。それは、このエピソードがゲームと無関係な恋愛という要素をゲームプレイに直接盛り込んでいるからだ。僕たちがゲームを楽しむとき、それはゲームだけでゲームをしているのではない。ゲームだけでゲームの楽しさを語ることは本質的に不可能であり、ゲームを超えたイマジネーションやバックグラウンドがどうしても必要になるのではないか。そんなことを思わずにはいられない。


補記(※)……ちなみにもう一人フリをしているキャラクターがいる。別のエピソードだが、人狼回での主人公・ミキだ。彼女もまた分からないフリをしていた。しかしそのことによってゲームは成立し、劇的なドラマが生まれた。分からないフリは決して傲慢を意味しないのだ。

2013年9月18日 (水)

【コラム】ボードゲームにおける長考問題は解決されるべきではない

長考にまつわる問題は、個人的に非常に明確な前提がある問題だと思っている。長考しないでいいかげんな1手を打つことで、ゲームはそのシステムから破壊される。これが大前提だと思う。誤解されてもいいので敢えて言うが、「長考してはいけない」というのは論理的におかしい。長考しないで、テキトーな1手を打つ奴は「絶対的に」ダメなのだ。ここは「人それぞれだよね」で済む相対的な問題ではない。適切な1手を打とうと思ったら、コンピュータや圧倒的な天才でない限り人間は長考するのだ。それを「長考しないで相手のことを慮って、早く一手打ちましょう」というのは理念(ボードゲームの論理)として間違っている。はっきり言ってしまえばテロだ。テロをどの程度認めるべきかというテロの程度を問う議論であれば成立する。しかし、この価値感を逆転させて、テロが正義であるとしてしまうと、それこそ黒ひげ危機一髪をやっていればよく、ボードゲームをプレイする必要は無くなってしまう。

…………。

さて、実を言うと、これまで様々な長考問題の話を聞いたり、読んだりしていて、以上のように考えていた。これは本心だ。しかし同時に、こう考えることで「とても嫌な気分」にもなっていた。「まあ、そりゃあそうかもしれないけど、ちょっと救いがないな。なんと言っても長考は嫌でしょうよ。楽しもうよ」と。実感としてもやっぱり長考すると申し訳ない気分になるし、逆に「長考しちゃってごめんなさい!」みたいな態度を見ると「ああ、この人いいひとだな」と思ってしまう。本当のところ「楽しくできれば、まあいいや!」という気持ちで僕はボードゲームをやってることが多い。僕自身もテロリストの1人なのだ。

で、お決まりの「まあ、人それぞれだよね」という十人十色説、逃げの一手に落ち着いてしまう(さっき否定したばっかりなのに!)。ただし、こういう考え方は一種のニヒリズムに到達する。つまり、長考問題は、考えようによっては「とても簡単な問題」にもなるということだ。悩む必要はなく、妥協もしくは定義してしまえば答えは一つに集束する。これは一種の諦めだが、かなり反論が難しい常識でもある。そうした長考問題を覆うニヒリズム「所詮、長考問題は○○だ」に陥ることなく考えたい。僕にはそんな天の邪鬼な気持ちもある。


■自由と場

で、長考問題を解決するとはどういうことなんだろうかと、改めて考えた。方法論と理念が混在してごちゃごちゃになっているところを、改めて「そもそも問題の解決とは何なのか?」という根本から考え直してみたのだ。そう考えて1点気付いたことがある。

それは「長考問題は常にメタ的だ」ということだ。

例えば、こんな長考問題の解決法がある。「砂時計を用意して、毎手番、この砂が落ち切る前に手を打つようにしよう」と、こんなことをゲーム開始前に取り決める。これは、とても素敵な解決法だ。ただし、これはルールの追加(改変)なのだ。もし、そのゲームに砂時計が本当に必要であれば、本来的にはゲームの箱に砂時計が入っているか、ルールブックに砂時計を準備するよう明記してあるべきなのだ。もし長考問題がゲームとしての問題であれば、それはルールの不備(問題)として議論するべき話になる。しかし実際はあまりそういう話にならない。ならないからそういう話ではない、ということではなくて、そういう問題として多くの人に捉えられていないということだ。

なにより、事実上、ボードゲームの多くは「無制限長考」を容認している。だからこそ「問題」としては常にメタ的にならざるを得ない。そして更に重要なこととして、実際にプレイされる場合、ほぼ99%のゲーム卓において、この無制限長考は事実上、追認されている。つまり砂時計で時間制限しましょうなんて解決策があることは分かっていても、試合など限られた状況でなければ、ほとんど実践はされない。この事実が重要だと考える。なぜ実践されないのだろうか。それは、砂時計を用いてプレイしてしまうことが自由の制限であるからだ。後に詳述するが、この「自由」というのがこの記事の要点の1つ目だ。

視点を変えてもう1つ、長考問題が発生する「場」というものを考えてみたい。長考問題は、身内同士のクローズドなボードゲーム会ではほとんど問題にならない。なぜなら、そういう摩擦を吸収できる関係が前提としてあるからだ。極端な言い方をすれば「長考してんじゃねーぞ、クソ野郎(笑)」という言葉が許される間柄で、長考問題は発生しない。それゆえ、オープンなゲーム会で全く見知らぬ人や、見知ってはいるがまだ遠慮のある人とのプレイにおいてしか(厄介な)長考問題は発生しない。だから、たとえオープンなゲーム会に行っても、仲のいい人(既に仲良くプレイできた実績のある人)とだけプレイすれば問題は発生しないだろう。これは長考問題がメタ的であることを端的に示す証左でもあるだろう。以上のように問題が発生する「場」が本記事の要点の2つ目だ。


■願望としての長考問題

上記の2つの要点を併せて考えると、長考問題の全く別の側面が見えてくる。即ち、僕たちは「本当に長考問題を解決したいのか?」という「願望の問題」としての長考問題だ。

1つ目の「自由」から考えよう。仮に長考を許せと言っても、どんなに長い長考でも許してくれる特殊な人間を求めるわけでもない。負けたら悔しがるし、早く次の1手を打ちたい、早くお前の手番を終わらせろと願う、そういうエゴがあることが普通だ。誰もが、多少なりとも「エゴのある人」とゲームをすることを自然と覚悟している。しかし、何かを快適にするために「自由を制限」することは、そういうエゴをガバナンス(統治)で抑え込んでしまうことになる。

自ら砂時計を持参し、ゲーム開始前に時間制限を提案する。それをしないのは何も提案する勇気がないからそうしないのではなく、そういうエゴを抑制するガバナンスの「危うさ」を知っているからこそ、やらないのではないか。

仮に砂が落ち切る前に手番が終わらなかった人にどんなペナルティ(罰)を与えるべきかを検討する段になれば、より一層その仕組みの「危うさ」が際立つだろう。長考を不快に感じたりすること自体は決して不自然な感情ではない。しかし、長考は「長考される側にとっても」ただ罰すべき悪になるとは限らない。長考についてどういう立場の人であっても「柔軟であること」を求めていることは大概一致している。だからこそ、敢えて僕たちは無法状態(=無制限長考)を選択するのではないか。まさしく長考によって他人を罰しなくていいように。

そして、この「自由」に2つ目の「場」の要素が重なってくる。現在進行形でボードゲーム人口が増えている日本のボードゲーム界において、オープンなゲーム会に行くことは、とても一般的なことだと思う。仲のいい人とのクローズドなゲーム会もいいけど、見知らぬ人と卓を囲むワクワク感がオープンなゲーム会にはある。もしかしたら失礼な人とぶち当たってしまうかもしれないリスクを抱えつつも敢えて参加する。それは1つの願望であり、選択だ。

こう考えてみると、長考問題とは、結構いろんな人にとって無意識に「欲望されている」問題なのではないか。「長考したら、相手は不快に思うかもしれない」と心配する。そういう「心配が必要な」他人とボードゲームを遊びたい。そう思うからこそ、そういう「自由」「場」を選択している。「ゲームを楽しみたい」と思う人が「一切のリスクがない無菌室でプレイしたい」と思っているとは限らない。もちろんだからと言って、あらゆる不快さを引き受ける覚悟ができているわけではないだろう。しかし、最初からその「不快の芽」を全て摘み取ってしまう「沈黙した世界」を欲しているわけではない

そして、この「欲望される」長考問題を想像することで、長考問題は解決しない方向が決して逃げ道ではなく、むしろ進むべき道でもあると考えられる。


■誰の問題なのか

考えてみてほしい。長考問題が発生しない世界は本当に平和な世界なのか?むしろ殺伐とした世界なのではないか。「長考あるべし」という原理主義も、「長考なくすべし」という原理主義も、そのどちらにも眉をひそめてしまうのはとても普通だ。なぜならほとんどの人が「柔軟であること」「罰しなくていいこと」を求めているからだ。いかなる形であろうと「本当に」長考問題を解決してしまうと、その先にはディストピア的な世界が待っている。不快なんだから管理すればいい、という発想に対する警戒感によって、長考問題はむしろ「あっていい問題」に転換される。より実際的な話をすれば、長考問題はガバナンスによって解決するべき問題ではない、ということだ。

例えばボードゲーム会で暴力をふるう人間を入場制限する。それはガバナンスを利かすことが妥当な問題だから問題にならない。しかし、全ての問題にそうした解決を適用することが幸せにつながるとは限らない。長考問題は、まさしくそういうガバナンスを効かさないことを覚悟すること、そのことに意義がある。

例えば、各テーブル内で小さく個々に長考問題を「いなす」こと。そのことで、むしろ「自由」は守られ、エゴがぶつかり合うゲームプレイの「場」が維持できる。こうした言わば「卓上の自治」を成立させること。それは長考問題を「解決」するのではなく「いなし」ていると言える。一人ひとりが、その場その場で長考問題を「いなす」ためのコミュニケーションを模索する。あらゆる場面で効く魔法のような解決策がないということは、そういうことだし、それが多くの現場で実際なされている努力だ。

例えば、長考している人に言葉を掛けるのも1つのいなし方だが、長考にイライラしちゃてる人に言葉を掛けることも1つのいなし方かもしれない。「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではない。もちろんこれは「そうしろ」という話でなく、考え方の話としてのことだ。だから、マナーという言葉にしても、それをルールとして捉えるのか、アーツ(技術)として捉えるのか。その違いは大きく、そして深い溝がある。

最初に逃げの一手と言った十人十色説はゴールなのではなく、スタートラインだ。それは負荷を各個人が担う「卓上の自治」を要請する。そして長考問題がややもするとイヤらしい問題になりかねないのは「僕じゃない誰かによってガバナンスを効かせてくれないかな」と他人まかせになりかねない部分にあるのではないか。長考問題が「だれそれが悪い」という問題であれば、どれほど簡単だろうか。むしろ解決が原因を決めてしまう問題だからこそ難しいのだ。だからこそ「長考する奴を何とかする」ことだけが、答えではないのだ。解決だけを享受することはできない。

経験者が没頭し過ぎて初心者の人を置き去りにすることがないように配慮したり、逆に没頭するあまり長考しすぎてしまった他人を会話の中で許すようにしたりする。そういうことが単なる諦めではなく自分の選択だと思うことで、世界の見え方は変わる。

他人にだけ負荷や責任を求めない姿勢こそが「いなす」ことを可能にし、ニヒリズムは自らが問題を引き受ける覚悟をした時にその哀しさから解放される。

だからこそ、こう言えるのではないか。
ボードゲームにおける長考問題は(誰かによって)解決されるべき問題ではなく、(私が)引き受けるべき問題であると。

2013年8月12日 (月)

【コラム】なぜソーシャルゲームを嫌悪するのか?そしてなぜボードゲームは人とプレイするのか?

■なぜソーシャルゲームを毛嫌いするのか?

唐突だが、ソーシャルゲームを食わず嫌いしている人が結構な数いる。かくいう僕もその一人だ。たいしてソーシャルゲームをプレイしてもいないくせに嫌っている。なぜやりもせず毛嫌いするのか?

その理由について社会学者の大澤真幸氏のこの書評を読んで思ったことがあるので、書いてみたい。そしてそれはなぜ僕がボードゲームを人とプレイするのかという理由とも関連していると思ったので、そのことも併せて書きたい。

この大澤氏の長い書評は、掲載当時にかなり話題になったので読まれた人もいると思う。あのNHKの番組で有名になったハーバードのサンデル教授の本の書評だ。さっそくだが、僕自身が今回注目したのは書評の中の以下の文章だ。

  • "行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。"

この具体的な例として赤ん坊を養子にする話が書かれている。

  • "ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。"

赤ん坊を養子とする際、商品のように値段を付けてしまうと、赤ん坊は途端に低級な「道具」に堕してしまう。なぜ商品のように扱うことが低級なこと、下劣なことに見えるのか。それを大澤氏は次のように説く。

  • "金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染する"

手段は目的に交換するための媒介物だ。お金は汎用的な「手段」である。だからこそ、お金のような「手段」ではなく、「それ自体目的になってい」ることの方がより「高級」に見える。

これは別にむずかしい話ではない。この書評にも例として書かれているが、他人にプレゼントを渡すとき、現金ではなく物をプレゼントする方が上品とされている理由と同じだ。現金の方が遥かに有用性が高いにも関わらず、むしろその有用性こそが「現金は下品だ」と思わせている理由でもある。

何か別のものに置き換え可能であること(=交換可能)は、そうでないもの(=交換不可能)に比べてその価値が低くなる。ユニークであることの方が、崇高に(高級に)感じられるのだ。理由なく「ただ端的に正しい」ことの方が、より根源的であるように感じる。例えば、「他人に嫌われないために」嘘をつかない人よりも、単に「嘘をつくことは嫌いだから」嘘をつかない人の方が高潔であるように思ってしまう。それは嘘をつかないことが単なる手段だと思うとイヤな気分になるからだ。行動が全く同じでも、そう感じてしまう。

実はソーシャルゲームに対する嫌悪感は、こうした交換可能なものへの嫌悪感ではないかと思っている。そしてその背後には必ず「交換不可能性への畏敬」がある。

単にゲームへの対価として課金を考えると、Free-to-playのアイテム課金の方がずっと良心的なはずだ。100円を払えば100円を払った分の利益を享受できる。いきなり大金である6800円を払って、全然楽しめない可能性を内包している商売と比べて、どちらが消費者にとってリスクが高いかは言うまでもない。

しかしそれでも、僕たちは、プレイ前に6800円を払うことの方が崇高だと考えてしまう。それはなぜなのか。それは、アイテム課金という仕組みが「交換可能な体験である」ことを常に僕に意識させるからだ。「今、このゲームを楽しんだ」というその経験が、今その場で払った100円、1000円に相当することを、アイテム課金の仕組みでは頻繁かつ強く意識させられる。その頻度と結びつきの強さが問題なのだ。私の体験がコマ切れにされて、その1つ1つが何円に相当するかを意識させられることが怖い。僕の食わず嫌いはこの「怯え」から来ている。

だから、僕のようなソーシャルゲームを食わず嫌いしている人間でも、すべての課金システムを嫌っているわけではない。例えば、月額課金のようなシステムに対してはかなり寛容になれる。課金に対する嫌悪感は、グラデーションのようになっている。0か1かで嫌っているわけではない。月額課金であれば、その「意識させられること」が月に1回で済むし、その「体験」と「金額」の結びつきは比較的ゆるやかだからだ。1カ月の中でどのように楽しむかには、大きな振り幅がある。

しかしアイテム課金では、その意識の回帰が頻繁にやってくる可能性を否定できない。僕の楽しい30分や60分が何円なのか。精度高く定量化されればされるほどに、その楽しみは目的ではなく、手段としての交換可能性に開かれていく。つまり「ホントはその遊びではなくてもいい」可能性に気付き、ゲームをすることが何か別の目的のための手段に堕することを怯えているのだ。

思い返せば、好きなゲームに対して「6800円に相応の楽しさだった」と評価することはほとんどない。逆に、そのゲームが嫌いであればあるほど、金額で評価することに抵抗がなくなる。「このゲームは1000円程度だった」とか「2000円でも高い」とか。しかし愛のあるゲームに対して「1万円の価値があった」とは微妙に言いづらい。せめて「1万円で買っても後悔しない」という言い方になる。そこには、どうしても定量化できない余地を残しておきたいという思想、まさしく「交換不可能性への畏敬」の念がある。

だから、「アイテム課金で6800円分の課金をしたら、パッケージゲームの6800円以上の楽しみが享受できるよ」とどれだけ説得しても、無駄である。正しいか否かに関係なく、決してその言葉はソーシャルゲームを食わず嫌いしている人には通じない。なぜなら、その交換可能性こそを嫌悪しているからだ。射幸心によって煽られ、金銭感覚などの計算能力が麻痺することを恐れているのではなく、むしろ逆に何らかの目的のための手段として冷静にゲームを扱ってしまうことを恐れているのだ。



■なぜボードゲームは人とプレイするのか?

そんなソーシャルゲームの隆盛というデジタルゲームの大きな転換期にあって、僕はアナログなボードゲームと出会った。ボードゲームを最初購入する時の正直な感想を言えば、「結構高いな!」だった。それでも思い切ってカルカソンヌを買って箱を開けてみて更に驚愕した。「なんという上げ底(?)だ!」と。

僕はテレビゲームを愛していると思っていたが、それでも定量的で交換可能な価値感に毒されていた。多くのゲームで、プレイ時間の長短(ボリューム)を強く意識していた。そのことに改めて気が付いた。「単にプレイ時間が長ければ良作というわけではない」と言いながら、何十時間も楽しんだゲームの方が短時間しか遊べなかったゲームより価値があると素朴に思っていた。ある時を境にファミ通がクリアまでの想定プレイ時間をクロスレビューに載せるようになった。僕はそのことにそこはかとない嫌悪感を抱きつつ、しかしその情報はしっかり読んで吸収していた。矛盾したその姿勢。

そんな悪い癖を引きずるように、僕はボードゲームの値段をプレイ回数で割ってみたことがある。しかし、そんな行為の虚しさを直ちに思い知るのもボードゲームの良いところだ。「1プレイあたり1000円か。まだ元を取ってないな」と頭で計算できても、単純には思い切れないのがボードゲームなのだ。なぜだろうか?

僕はその最も大きな理由が「人と顔を突き合わせてプレイする」という点にあるだろうと思う。先程の赤ん坊を養子にする話と同じで、僕たちは人を金に換算することに嫌悪感を持つ。人を金で買うことに、倫理的な嫌悪感を抱く。これは値段を高く評価すればいいとかという話ではない。目の前に息をして座っている人と楽しく遊んだ時間をお金に換算することのやましさ。楽しさの大小はそれぞれだろうが「あのプレイは1000円分に相当するな」とか「あのプレイは200円程度の価値だった」とは、意外に上手く考えることができない。「目の前に人間がいることの迫力」をうまく計算できない。8800円のボードゲームを、5回プレイしようが、50回プレイしようが、交換不可能な体験に昇華しやすいからこそ、その崇高さを維持することができる。

仮に、ボードゲームにスマホ用の対戦AIアプリが同梱されるスタイルが一般化したとしよう。そうした「機械相手にボードゲームを楽しむ仕組み」が発展したとしたら、おそらくデジタルゲームのように金額をプレイ時間で割って、高いコストパフォーマンスを求める人が確実に増えるだろう。そのAIが人間と区別がつかないほど精巧であっても、それは関係ない。そういう機能性の問題ではないからだ。AIであれば、値付けすることへの遠慮はなくなり、いつでも、より良いAIへと全く躊躇なく変更(交換)できる。

かけがいのない体験としてのゲームプレイ、それ自体が目的であるという「ゲームプレイ」。それ自体が目的でなければ、「ゲームプレイ」は手段になり、別の行為に交換可能になってしまう。「それ」をプレイしなければならない理由も(本当は)霧散してしまう。そのために僕たちは「○○のため」という理由に対して、どこか無自覚でなければならない。

僕たちがボードゲームでなければならないと思っているその交換不可能性は何なのか?その理由を問う行為は、皮肉にもその交換不可能性を相対化して交換可能なものに変化させてしまいかねない。たとえ今現在ボードゲームを「実際に」楽しんでいたとしても、いつの日かそれが他の娯楽にとって代わってしまうかもしれないという「怯え」は、ソーシャルゲームの交換可能性に対する「怯え」と根を同じにしている。

しかし、こうした「怯え」を巧妙に回避するための仕組みがまさしく「人とプレイする」という行為であり、その「目の前に人間がいることの迫力」による計算能力の麻痺なのだ。人とプレイするというその1点を維持し続ける限り、僕たちはボードゲームの交換不可能性をかなりの強度で確信することができるだろうし、その仕組みによりボードゲームへの「愛」を救われることもあるだろう。

人とボードゲームをプレイすること(語ることも含め)は、そのゲームを味わうための手段である。しかし一方でその手段こそがボードゲームの崇高さを支えていたりもする。そのため、僕は時に「人と遊ぶためにボードゲームをプレイしているのか」それとも「ボードゲームを遊ぶために人とプレイしているのか」そのどちらが本質であるのか分からなくなることがある。

しかし、このよく分からないという状態こそ、「ゲームプレイ自体」が目的であることに(まだ)近い状態なのではないかと思う。何か明確な目的Xのためにボードゲームをプレイし始めた瞬間に、その神聖さは音を立てて崩れてしまうだろう。

理屈っぽく愛を語る人よりも、愛する理由を知らない人の方が美しく見えるのは、そういうことだ。子供が母親を愛するのは、決して育ててくれるからではないし、そう思うからこそ子供の無邪気な愛情は崇高なのだ(だからこそ実際に子供がいかに狡猾であるかを知る時、一瞬僕らは戸惑う)。

もちろん、世の中には(そしてボードゲーマーの多くは)なぜ「私がこれを好きなのか」についてついつい理屈っぽく考えてしまう人も多いだろう。しかしそんな人でも「もし本当になぜ好きなのかが分かってしまったら、逆にゲームをもう遊ばなくなるのではないか?」というある種、怖い想像をしたことがあるのではないか。自分がまだよく分かっていないからこそ、これからもまだ遊べると安堵したことはないか。

少なくとも僕は人と遊ぶことを大切にしていきたいと思い、そして、ついつい新しいゲームを求めてしまうのは「分からなくなりたい」がため、という気がしている。それがまさしく「交換不可能性への畏敬」の現れの一つであり、麻痺することへの憧れとしてあるのだろうと思っている。

2013年7月18日 (木)

【ボードゲームレビュー】小早川 ★★☆☆

Kobayakawa_01

評価:★★☆☆[2/4](5人プレイの評価です)

プレイ人数:3~6人

プレイ時間:15分


シンプルにして……

簡単なゲームの流れ

  • ①カードは全部で15枚。1~15の数字が1つずつ書かれている。全員に1枚のカードを配る。残りを山札にしてそこから1枚めくり、そのカードを「小早川」とする。
  • ②手番は2巡する。1巡目。自分のカードと新たに山札から1枚めくったカードと、どちらを自分のカードとするか選択する。
  • ③2巡目。自分の手札で勝負するか選択する。勝負する場合はコインを1枚賭ける。
  • ④勝負する人だけカードを公開。ただし最も小さい数字の人は小早川カードを足すことができる。最も数字の高い人が勝ち。賭けられたコインを総取りする。
  • ⑤最後の勝負はコイン2枚賭け。最後に最もコインを持っている人が勝ち。

Kobayakawa_02



ゲームの総評


10年前だったろうか。初めてiPodを買って、箱から取り出した時の感動は今も忘れられない。「なんか箱もかっこいいー」とキャッキャしながら妻と(その時はまだ彼女だったけど)、箱を開けた時のことを今も覚えている。

オインクゲームズさんはきっと箱を開けるところから、そしてその箱をしまって部屋の棚に置いておくところまで、その商品がカバーすべき体験だと捉えて作品を作っていると思う。僕はアップル大好きのアホなので"iPodほど"とまでは言わないが、そういう周辺体験を大事にして、単に大事にするだけでなく、このレベルのクオリティにまで商品を持っていける実力というのは本当に凄いと思う。このクオリティがあるからこそ、きっと多くのファンが静かに、そして着実に支持を続けているのだろう。

僕はオインクゲームズさんのゲームをそれほど買っていないので、いいファンではない。そのくせエラそうな事を書いてしまうが、オインクゲームズさんはとてもボードゲーム業界において大切な存在だと思っている。その大事さを、僕は「多様性のある普及」というキーワードで捉えている。これは「藪の中」を買った時から、ずっと思っていることなので、「小早川」をプレイしたこの機に書いてしまおう。



「ボードゲームがもっと普及したらいいな」という思いは多くのボドゲファンが抱いている素朴な願いだ。しかしその「普及」とは一体どういう状態なんだろうか。

僕は「普及」することが単純にファンの数や市場規模がでかくなることだけでは、いつも少し寂しいと思ってしまう。もちろんファンが増えて業界の市場規模が拡大することは望ましいことだ。だけど、「多様性」という観点からも「普及」が評価されていいのではないか、とも思うのだ。これは贅沢な願いかもしれないが、「多様な価値観が存在する普及」を望んでしまう。

だから、僕はいわゆる「普通のボードゲーム」をみんなが愛する必要はないと思っている。極端なパターンとして、オインクゲームズのファンがその他の普通のアナログゲームやボードゲームに魅力を感じ「ない」のだとしたら、それを僕は「全然アリ」だと思う。いわずもがなだけど、逆もまた真(全然アリ)だ。

多様な趣味趣向が集まっていられること。嗜好の似た人たちが集まる居心地のいい沼よりも、たとえ細くとも常に新しい水が注ぎ込む小川を僕は好む。だから「現時点でゲームを別に愛していない人」がいてもいい。それでも、そういう人が思わずボードゲームを楽しんでしまったりしたら、まさしく「してやったり」なんじゃないか。

だから、なんと言うんだろう。究極的には「分かり合えなくてもいい」と思っている。そういうお互いに認め合うことができない価値感が、そのまま「一緒にいる」ことに意味がある。「普通のボードゲームをみんなが愛する必要はない」というのは、そういうことでもある。もちろん異なる価値観を持つ人同士を一緒にしない方がいい場面というのもあるだろう。以前、話題になったモノポリー大会の例もあるように、競技や試合などという「真剣の場」などは典型的な例だ。意識の違いが悲劇を生む。だから住み分けた方が快適であることは十分に理解しつつも、しかしそれでも単に住み分けてしまうことに割り切れないモヤモヤした感情を抱く。

個人的には僕にも色々趣味趣向はあって、「ドミニオンとか別ジャンルの遊びじゃね?」とか「ウォーシミュレーションは全く興味持てないわ―」とか思う。そう思うんだけど、例えばゲームマーケットでああいう違うモノが混然一体となって場を共有していること自体は凄く嬉しい感じがする。将来的にゲームマーケットの規模が大きくなって、もしかしたらジャンルごとに会場が別れてしまうかもしれない。たとえそうなったとしても、それが悪いことだとは思わない。けれど、今もっている「豊かさ」みたいなものはきっと減ってしまうだろう。これは、僕自身が、業田良家の漫画にあった「カオスであるってことは、豊穣でもある」ということを信じているからだ。今のカオスな状況が持つ魅力と豊かさに僕が惹かれているからだ。

健全な業界であれ、とは思わない。しかし逞しい業界であってほしいと願う。逞しい業界とは、多様な人を受け入れる業界なのではないか。子供、女性、高齢の方、ライトユーザ、ヘビーユーザ、色々なタイプの人間が溢れている方がいい。オインクゲームズさんはその意味において、この業界における重要な橋頭堡だと僕は思う。そして「小早川」はその戦線で戦っていけるゲームの1つであり、「オサレなゲームww」などと鼻で笑う人のルサンチマン的嫉妬など、物ともしない強さを持っているゲームだと思っている。


評価★★☆☆とした理由……面白い。ほとんど説明をされなくてもいきなりジレンマにぶち当たる感じ。どこまで考えても、合わせ鏡のように裏に裏に思考が連鎖していく。ただ、なんとなくだが、「藪の中」より色々感想や悩みを語りあうのが難しい気がする。

2013年5月26日 (日)

【コラム】なぜボードゲーム初心者は憧れの重量級ゲームを買うべきか?

ボードゲームを買うようになってから、もう半年以上が経った。まだ初めてボードゲームを触った頃の気持ちが残っているうちに、書き残しておこうと思っていることが1つあるので、そのことを書く。

ボードゲームの話では全然ないのだが、昔ネットだかテレビだかで、ショパンの「幻想即興曲」を独学で学んだというおじさんが出ていた。曖昧な記憶だが、そのおじさんはこれまでほとんどピアノを正式に学んだことはない。しかし、ショパンの「幻想即興曲」に憧れて、ピアノを独学で学び、その曲を弾きこなすまでになった。

僕はそのおじさんを見て、強い共感を覚えた。その演奏は決して上手いものではない。とても素人くさい。でもそのおじさんの成したことは、ピアノなど全く素人の僕にも強烈な印象を与えた。

はっきり言って彼は無謀だと思う。きっと「よく分かっている人たち」は、そんな無謀な彼を目の前にしたら、とても正しいアドバイスをするだろう。基礎を教えてくれる音楽教室に通うべきだとか、もっと簡単な曲からマスターするべきだとか。その方がずっと近道なんだと。

そういうアドバイスはきっと正しい。しかしだ、おそらくそのおじさんを突き動かしていたのは、「幻想即興曲」に対する圧倒的なロマンだったろう。ショパンの「幻想即興曲」には、きっと効率とかいう真っ当な価値観を忘れさせる何かがあった。「エリーゼのために」にはない圧倒的な魅力があったはずなのだ。

ボードゲームを好きになって、ネットでいろんな情報を集めるようになり、そこで「初心者に難しいゲーム」という言葉を見つけると、いつもそのおじさんのことを思い出す。

「初心者に難しいゲーム」という言葉。これ、多分、正しい。初心者には厳しいというのは、きっとその通りなのだろう。

でも、僕と同じように、初心者の中には、きっと憧れの重量級ゲーム、重ゲーを心に抱いている人が少なからずいるのではないかと思うのだ。「1ゲーム3時間かかります!」とかにロマンを感じちゃったりしている初心者がきっといっぱいいると思う。

で、最近よく思うのは、他人の言葉なんか気にせず、買っちゃえよってことだ。「上級者向け」?気にするな。難しくてよく分からなかった?けっこうけっこう。きっと、その行為は、次に繋がる「かけがいのない経験」になる。

ベテランの人たちだって、何も意地悪をして「初心者に向かない」なんて言っているわけではない。ある程度の手順を踏んで、100%の状態でその名作を楽しんでほしいからこそ、そう語るのだ。

しかしだ。大切なのは、そうしたロマンを持ち続けることだ。そういう訳の分からない思いに突き動かされてこそ、自分にとっての「特別なボードゲーム」は手に入るのではないか。そして、その期待と失望と歓喜のサイクルは、どれだけベテランになっても、もしかして、変わらないんじゃないか。

だから、色んなレビューサイトを見て不安になるよりも、一発どかーんと買っちまえばいいと思う。そのゲームに憧れてしまうくらいなんだから。

少なくとも半年間いろいろなボードゲームサイトを見たり、ボードゲームを買ったりして分かった。どうやら、ボードゲームに憧れやロマンを抱いてしまうしょうもない人間は、「初心者」という言葉の中に含まれていないようなのだ。

だから「まだボードゲームに慣れてないからな」なんて言って、重ゲーを買うのにためらう必要は全くない。

これは想像だが、どんなベテランプレイヤーも、そうした「思い切った跳躍」をかつて1度、経験したことがあるのではないだろうか。「難しいかな、どうなんだろうな」と迷うところをジャンプした先に広がる世界が、きっとあると思う。

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